呆然としている少年達を送り出し、彼女達は部屋を出た。
カラオケボックスの会計を済ませようとすると、既に繭美が6時までの料金を先払いしていた。まだ時間までには30分ほどあったが精算した。そして彼女達は、それぞれビルを出た所で別れた。
観久と瑠璃は車のお迎えつきである。ターミナルに止まっている超高級外車は異様に周りの目を引いた。
「亜美ちゃんのお迎えは?」
「もうすぐ、東雲が来ると思います。大丈夫よ」
「それではまた明日」
「ごきげんよう」
まるで、ドラマだ。これが少しも嫌味はなく自然なところが、育ちの良さを物語っているのだろう。彼女達が通う学校は、俗に言う資産家や名家の令嬢は多い。それが名門と呼ばれる所以だろうか。三年前に今の形に変わった制服も人気があるようだ。
それでも、やはりするべきことは、みんなしている。何も知らない悠司から見れば信じられないくらい乱れていると思うが、観久には婚約者がいるし、瑠璃にも結婚を視野に入れた恋人がいる。彼女達のほとんどには、相応の相手がいる。
つまり、遊び感覚なのだ。
だがそれも、親の手の中で動いているだけ。こうして彼女達は人付き合いの計算を身に着けてゆく。
亜美は軽く手を振って三人を見送り、なるべく目立たないようにビルの影に移動する。だが、やはり紫峯院の制服を着た美少女だけあって、自然に人目を引いてしまう。無遠慮な視線が、主に彼女の顔と胸に注がれる。
嫌な視線だな、と悠司の思考がつぶやく。
それが快感なんですよ、と亜美が心の中で笑う。
彼女の中で、着実に何かが変わり始めていた。今まで、どこか冷たい印象があった亜美に血が通い始めた……そんな感じだ。
いつもこんな調子なんだろうか?
悠司の疑問に、亜美が答える。だいたい、こんな所かしら。エッチをしたり、他愛ないおしゃべりを楽しんだり。それは悠司にとって新鮮な驚きをともなっていた。
彼は昔から、人付き合いが悪かった。友達も数えるほど。大学に入ってからは、一人もいない。メールを交わす人もいないわけではないが、友人とはいい難い。
それに対して亜美は、常に多くの人が周りに集まっていた。家にも多くの使用人がいる。だがそれは彼女自身に惹かれてではなく、瀬野木という名家の娘であるからに過ぎない。学校が楽しいのは、損得を抜きにしたつきあいがあるからだった。だが、ここでも時々相手の思惑が見て取れるのが、どこか悲しい。
瀬野木の娘と知り合いになって損はない、と。
案外二人は、似た者同士なのかもしれない。片や自分から人付き合いを拒み、もう一方は望んでも得られぬ、親友という関係を渇望する孤独な者。
戻れたらいいなとは思うけどな、と悠司。いや、絶対に戻りたい。
それなのに、今ひとつ切迫感が無い。戻りたいと思っているはずなのに、どこか諦めのような感情がその上に乗り、どっしりと腰を下ろしているのだ。葛藤している意識が亜美と悠司にふわりと分離して、会話を始めた。
(私は先生と、ずっと一緒に居たいです)
(俺は君のことを知らないのに?)
(いいえ。私のことは、お母様や姉様よりも知っているはずです)
(一心同体だもんな)
(私は……先生のことを、悠司さんのことをもっと知りたい)
(君だって、俺のことを知っているはずだぜ)
(ふふっ。一心同体ですものね)
(あまり知られたくないんだけどな)
(……悠司さんの心って、とても温かいです)
(自分では冷たいやつだと思っているけど。無責任だし、無愛想だし)
(いいえ。とても温かい。ほんと、溶けてしまいそう……)
再び、意識が溶け合ってゆく。
こうしていると、さも二つの人格が対話しているように見えるが、悠司と亜美は自問自答をしているようなもので、明確な区切りがあるわけではない。それさえもが、もう、だいぶ曖昧になってきている。一人二役を演じているような、そんな感じだ。
ぼんやりと心の中で会話を交わしている亜美に、一人の男が近づいてきた。
上半身裸に黒のレザージャケット。下半身も体にぴったりと張りつくこれも黒のレザーパンツ。そしてソフトモヒカン、いわゆるベッ○ムヘアーの金髪野郎が、亜美の前に立ちふさがった。唇の端には2つのリングピアスが、そして鼻にも大きなピアスがぶら下がっている。
「お姉ちゃん、オマンコしようぜ」
通行人の何人かがぎょっとして二人の方を見るが、男の格好を見て、我関せずとばかりに足早に歩み去ってゆく。
亜美は彼を見上げ、困ったように首を傾げた。
「お嬢様にはオマンコもわからないってか。オマンコでわかんなきゃよぉ、セックスだったらわかるだろ、おい。俺、たまってんだよ。姉ちゃんの股の間にブチ込ませろよ、な?」
男の手が亜美の胸に届こうとした、その時。
「お嬢様、お待たせしました」
亜美の影の中から現れたのではないか、と錯覚するほど、どこからともなく東雲が現れた。
「ヒュウ! お嬢様かよ。たまんねえなあ」
男はベルトにぶら下げていたバタフライナイフの柄を握り、音を立たせながら老執事を威嚇し始めた。だが当の本人はといえば、まるで意に介していない。ただ、亜美と男の間に割って入り、男を牽制している。
「へっ! お嬢様よぉ。一発じゃなくて、何発でもお前のマンコにぶち込んでやるぜ? 俺のぶっといチンポでよぉ!」
男は膨れた股間を誇示するように、腰を前後に振る。
ぴたぴたのレザーパンツの股間は大きく膨らんでいる。確かに、かなりの持ち物のように見える。
東雲が一歩足を踏み出したのを、亜美は袖を軽く引いて制止した。枯れた老紳士の外見に惑わされてはいけない。東雲は武術百般に通じている。亜美に害を及ぼそうとする輩を、彼がただで帰すはずはない。一瞬で息の根を止めるくらい、容易にやってのけるだろう。腕や足の骨を折るくらいで済めば御の字だ。
亜美は薄く笑って男の前に立った。こんなバカ男なんか、いるだけで世のためにならない。今まで感じたことのない衝動が、亜美を突き動かしていた。
「そんなに自分のこれが自慢なんですか?」
そして股間に手を当て、軽く動かした。
「うひっ!」
男は一瞬のうちに射精していた。亜美はそのまま、小刻みに手を動かし続ける。男は目を半眼に見開きながら、続け様に射精した。とんでもない快感が一気に爆発する。
「ああひゃっ! ひゃははあああああっ!!」
亜美が手を離すと、ズボンの前面に濡れたような染みができていた。ほんの1分ほどで、精液が枯れ果てるまで射精させられたのだ。それも、枯れてもなお射精させられ、最後の二十秒ほどは堪え難いほどの激痛が走っていた。男はそのまま腰が砕け、床に崩れ落ちてしまった。
亜美は気絶したままの男を見下ろして、くすりと笑った。
「このくらいで参ってしまうようでは、私の相手なんか務まりませんわ。出直してらっしゃい」
さっ、と東雲が差し出したハンカチで手を拭う。淡く香水が染み込ませてあるのだろう。いい香りだ。
「東雲、帰りますよ」
「はい。お嬢様」
白髪の老紳士を後ろに従え、亜美はさっそうと立ち去った。
後に残るは、瞬時にして腎虚に陥った、精液と血を股間から垂れ流したまま気絶している哀れな男の姿だけだった。
タクシーターミナルの端に黒塗りのリムジンが止まっていた。
予定は伝えてあるが、どうして連絡もしないのに居場所がわかるのかは亜美も知らなかった。護衛が影から彼女を見守っているのか、それとも時計や鞄などに発信機のような物が仕組まれているのではないだろうか。
監視されているんじゃないか、と悠司は思ったが、亜美は物心がつく前から他人に世話をさせることに慣れていて、守られることも監視されることにも抵抗はまるでないようだった。
扉を開けた東雲の視線に、亜美は小首をかしげて言った。
「どうかしましたか?」
亜美と視線のあった東雲が、わずかに表情を変えた。
「いえ……何でも御座いません」
すぐにいつも通りの彼に戻り、先程までのいぶかしげな表情は微塵も感じさせなかった。
(さすがは東雲ね)
亜美の微妙な変化を感じ取ったのは間違いない。
なにしろ、兄や姉が産まれる前どころか、先祖代々、瀬野木家に仕えている一族である。先代当主である亜美の祖父が亡くなった現在、瀬野木家のことは彼女の両親よりもよく知っているだろう。まさに瀬野木家の生き字引だ。
執事頭の地位を息子に譲ってからは亜美の養育係として、それこそ乳飲み子の頃から実の子のようによく知っている。
何か引っ掛かるのだが、今の亜美はそれを思い出すことができない。喉に小さな魚の骨が刺さったような感じだ。悠司としての記憶も、かなり混乱している。引っ越し直後の部屋の状態とでも言えるだろうか。二人分の記憶が同居しているような者だ。混乱するのも無理はない。
東雲が助手席に座ると、車は静かに走り出した。
やがて信号待ちの車窓から、瑞洋軒と看板のかかっているレトロなレンガ造りの建物が見えてきた。今日は天気がいいので、オープンカフェになっているようだ。
瑞洋軒は和風喫茶店、いわゆる大正時代のカフェを模した店だ。袴にエプロンをかけた姿のウェイトレスが給仕をしている。
名物は、「あいすくりん」。卵と牛乳の風味が味わえる、氷まじりの氷菓だ。アイスクリームとは違うザラリとした舌触りが好評で、控え目な甘みもあいまって女生に大人気の逸品だ。風味付けに蜂蜜やハーブを加えているのが味の秘訣らしい。
他にもウェイトレスに美人が多いこともあって、マニア層にも受けが良いというのは悠司の知識にもあった。チェーン店ではあるのだが、郊外を中心に展開しており、その数もまだ十軒少々。都心ではお目にかかれない店なのである。
流れ込んできた亜美の記憶によれば、友達ともよくこの店に行くようだ。
そういえば、絢ちゃんと約束したわね、と亜美は思い出した。教室で居眠りをしていた亜美を起こしにきた水泳部の彼女だ。
車内にはカーナビなど付いていないのに、運転手は混雑を巧みに回避しながら道路を進んでゆく。
2、30分も走った頃だろうか。多摩川を越えていないから恐らく都内なのだろう。それなのに、道路の右手に緑の広大な敷地が視界に飛び込んでくる。長く続く柵の中に現れた門の自動ゲートを抜け、森林公園かと見間違うほどの深い緑の中へと車は進んでいった。
ゲートから5分ほど走るとようやく視界が開け、建物が見えてきた。
見渡すといった方が相応しい敷地の中に、平屋建ての建物が幾つも立ち並んでいる。さすがに地平線までは見えないが、大規模分譲住宅地の敷地の中に、家が一軒だけあるようなものだ。贅沢な事この上ない。
だがその一方で、悠司は寒々しさも感じていた。
一瞬、宗教施設を連想してしまったのも無理はない。あまりにも整い過ぎているのだ。人が暮しているという感じはほとんどない。まるでよくできた箱庭を見ているようだ。
道路の終着は、まるでバスターミナルのようだった。
東雲に扉を開けられ、亜美は車を降りる。
何人かのメイドが玄関の前に立っていて、一斉に頭を下げた。
まるで海外の映画を見ているような感じだった。
濃いグリーンを基調にしたメイド服が大半を占めている。
濃紺や、ピンク色のメイド服姿もある。
何気なく眺めているうちに、頭の中に自然と彼女達のことが浮かんできた。まだ記憶は混乱しているが、これなら大丈夫そうだ。
東雲が開けてくれたドアから降り、亜美は玄関へ入る。カバンは東雲に預けてある。先導するメイドに続いて、廊下を歩いてゆく。
まるでホテルみたいだ。
すれ違うメイドは一人もいない。皆、廊下の端に立って亜美に頭を下げている。どこか居心地の悪さを感じる。
10分ほども歩いただろうか。車がすれ違えるほど幅のある回廊を経て、彼女は目的地に着いた。その間にあった扉の数を数えてみたが、五十を越えたあたりでばからしくなってやめた。
亜美が暮しているのは、彼女のためだけに建てられた、一部が二階建になっている別館だった。部屋が20もあり、小さいながらもホールを備えていて小規模なパーティも開ける。調理施設も、浴室つきの客間もある。これだけで一つの独立した世界なのだ。専門のハウスキーパーにコックまでいるという念の入り用だ。
この建物は、彼女が中学に入った時のお祝いに父親からプレゼントされた物だ。ちなみに母親からは、ドレスとアクセサリー。ティアラとネックレスと指輪のセットだった。もちろんこれも、イタリアの宝石商に作らせた特注品だ。
ここまでくると、羨ましいというより呆れるしかない。
夕食もここで摂る。生活の大半は、ここで過ごしている。
父親も母親も、それぞれ仕事を持っていて、まず顔を合わせることはない。亜美には兄と、結婚した姉、そして弟がいるが、嫁いでいる姉は別として、同じ敷地内で暮しているはずの兄と弟でさえ、滅多に会わないくらいなのだ。
寂しいもんだな。
でも、これが当たり前だと思っていましたから。
着替えながら、心の中で会話をする。
東雲もついてくれていますし、学校に行けばお友達もいますから。
友達……か。
いったい今のは、どちらのつぶやきだったのだろう。心を許して全てを打ち明けられる人は、二人にはいない。あの布夕や瑠璃でさえ、どこか一線を引いているようなのだ。
「亜美様」
扉の外から彼女を呼ぶ声がする。
「はい」
「雄一郎様がおいでになられていますが、いかがなさいますか」
心の中に、熱い物が込み上げてくる。
「応接間にお通しして」
「かしこまりました」
亜美は急いで部屋着に着替え、高鳴る鼓動を抑えるように胸に手を当て、応接間へと向かった。
誕生日には室内楽団を呼んで小さなコンサートも開いたことのある部屋に、アンティークの椅子に浅く腰掛けて、落ち着かなそうにしている男がいた。
「お久し振りです、お義兄様……」
駆け寄って、彼の手を取る。
「亜美ちゃん、おひさしぶり」
胸が、きゅっと苦しくなった。
そうとは気づかないまま別れ、気づいた時には既に自分の手の届かない人になってしまった、彼女の初恋の人。そして、亜美が処女を捧げた人。かつて彼女の家庭教師であり、今は姉の夫である義兄、生島雄一郎(はじまゆういちろう)だった。