いつもと同じ朝が、またやってくる。
そう。いつもと同じ……。
7月ともなると日中は汗ばむほどの陽気だが、ヒートアイランド現象とは無縁の緑多きこの家では、夜も八時を過ぎると昼の暑さは嘘のように静まり、肌にひんやりとしたものを感じるようになる。
だが、亜美が住む別館の一室はむせ返るような妖しい熱気に包まれていた。
「お嬢様、いけません!」
かおりは言葉こそ否定してはいるが、口調がどこか甘えたようなものなのを、本人も自覚している。
「もう、かおりさんったら固いんだからぁ……」
うしろから抱きつき、浦鋪かおりの胸を揉みながら亜美が口を尖らせる。
「かおりさんの今のお仕事は、私とエッチをすることですよ」
「ですが……んっ!」
陥没ぎみの乳首を亜美が爪先で掘り起こすようにしていると、だんだんと固くなってくるのを楽しむ。
かおりが着ているのは特製のレザー・ボンデージメイドスーツだ。表面は黒のエナメル地になっていて、胸とお腹の部分が大きく開いて肌が露出している。特に胸の部分はバストを絞り上げるようになっており、水着の跡がついた小麦色の乳房がおわんのように突き出ているのだ。
朱色の裾が広がったスカートのフレアは腿の半分までも行かないミニで、かがんでしまえば下着が丸見えだ。だが下着が見える心配はない。なにしろ何も履いていないのだから。
昼間は普通のメイド服だが、夜になるとここのところ毎日のように特注であつらえたボンデージスーツを着せられ、かおりは亜美のなすがままにされている。
「だめ……お嬢さま。これ……以上んんっ!」
「私がかおりさんの“彼氏”なんだから、いいわよね?」
かおりが黙っている間は、わざと手を休めてじらす。
やがて耐えきれなくなったかおりは、亜美の言葉通りにおねだりの言葉を口にするのだ。
こんなかわいい人を思いどおりにできるなんて、ぞくぞくする。
亜美は何かから逃れるように、かおりの体に溺れていた。
なにしろ肉体は女だから、直線的な快感しかない男とは違い、いつまでも快感を貪っていられる。そして、その間だけは何もかも忘れることができる。
そうでもしないと、壊れてしまいそうだった。
例え体は女でも、男であるという思いがどこか抜けきれない矛盾した心が、彼女を苦しめている。
舌先を絡めあわせるキスをしながら、亜美は右手の乳首への愛撫も忘れない。かおりの息が荒くなっている。そろそろ、頃合だ。
ソファーの方に軽くかおりを突き飛ばすように押しやり、にっこりと微笑む。かおりは上気した顔で恥ずかしそうにうつむき、座って亜美を迎える準備をした。
どのディルドゥにしようか選んでいる最中に、ドアを叩く音がした。
「亜美様、よろしいでしょうか」
かおりがとっさに両腕で胸を隠し、足を閉じて前屈みになり小さく身を縮こまらせる。
亜美は扉に向かって言った。
「なんですか、東雲」
「ご依頼の調査の結果が出ました」
扉の向こうからの声に、亜美は軽く片眉を跳ねあげて答えた。
「ご苦労様。後で目を通しておきます。私の机の上に置いておいて下さい」
僅かな間を置いて、気配が遠ざかってゆく。
完全に足音が消えてから、かおりは溜めていた息を、はーっと吐いた。
恥ずかしさで顔を真っ赤に染めてうつむいているかおりを見下ろしながら、亜美はうっとりとなって自分の唇を舐める。
「恥ずかしがっているかおりさんって、やっぱり可愛いですね」
かおりの横に座り、ほとんど押し倒すように抱きつき、唇にキスをする。
固くなっていた彼女の身体が、亜美の手技によって徐々にほぐされてゆく。
悠司が亜美になってしまってから、はや2か月余りが過ぎていた。夏休みも近い。
この休みは、親しい友人達と一緒に海に行くことが決まっている。
普通の高校生と違うのは、行く場所がハワイのプライベートビーチというところだろうか。それもダイヤモンドヘッドなどの俗な場所ではなく、見渡す限り他に人がいない所だ。もちろん、専用の宿泊施設付きで何も不自由はない。
滑走路もあるので自家用機で行ってもいいのだが、布夕が小さい飛行機は怖いと言ったので、普通の旅客機を使って行くことになっている。もちろんエコノミーやビジネスクラスではなく、ファーストクラスの貸切だ。
でもその前に、やっておくことがあった。
自分自身の迷いに、決着をつけなければならない。
ひとしきりかおりの体を楽しみ、彼女が眠りに就いたのを確認して亜美は書斎に足を運んで、アンティークデスクの上に置かれた飾り気の無いB5サイズの茶封筒を手に取った。
亜美は震える手を抑えながら、東雲が置いていった報告書の封を切った。
読み進むにつれて亜美の手はさらに震え、紙を繰る速度は遅くなってゆく。
さっきまで燃えるように熱かった体は、氷のように冷え始めていた。
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期末試験も終わり、試験休みと称する実質的な夏休みに突入した初日に、亜美は独りで出かけた。
今日は、車を使っていない。クリーム色のワンピースと幅広の帽子をかぶった亜美は、バスと電車を使ってここまでやってきた。
彼女が立っているのは、悠司が住むアパートの前だ。
確かにおぼえている通りの景色だ。
間違いない。自分は確かに、都築悠司の記憶を持っている。
亜美は微かに震える手をぎゅっと握り締め、二階を仰ぎ見た。彼女の視線の先には悠司が住んでいるアパートの部屋がある。
5分ほど通りに立ちすくんでいた亜美だが、ようやく心を決めてアパートの階段を上ってゆく。
奥から2番目の部屋が、悠司が住む部屋だ。
報告書には彼の詳しいパーソナルデータが詳細に記され、今でもそこに住み、大学へ通っている事などが書かれていた。
都築悠司という人物がいる。
これは確かなことだった。
亜美という少女も確かに存在し、疑う余地はない。
あの夜、自分はそれまでまったく知らなかった少女、瀬野木亜美になってしまった。
それでは、自分は最初から瀬野木亜美であり、都築悠司の記憶は単に、亜美の記憶が産み出した妄想なのだろうか。だが、報告書の中には思い出せないできごともあったが、大半は悠司として思い当たることばかりだった。人から聞いたにしては、あまりにも細かく知り過ぎている。
今の自分の記憶はいったい、どこから来たのだろう?
あの夜、自分はヴァーチャルラバーズというソフトの開発途中版をネットからダウンロードし、実行した。
そして、どうしてか理由はわからないが悠司は女性に変化してしまい、その女の名前は瀬野木亜美という、それまでまったく知らなかった別人だった。悠司は亜美の人格に乗っ取られて男性とセックスを重ねたが、やがて男としての意識も表に出るようになり、男と女の意識の境界があやふやになってきた。
悠司と亜美の記憶が融合したような感じだ。
そうだ。確かに自分は女になり、都築悠司の肉体はこの瀬野木亜美という体へと変化したはずだった。
ではなぜ、悠司がもう一人存在しているのだろうか。
悠司が亜美へと変化したのなら、それまでにも実在した瀬野木亜美という人物の肉体はどうなってしまったのだろう。
何もかもが、混沌の中にあった。
東雲の報告書の中に、写真はなかった。亜美は写真を入れないようにと指示したのだ。
見るのが怖かったからだ。
確かに写真を入れさせなかったのは正解だった。報告書を読むだけでも亜美は何度となく目眩をおこし、結局3分の2ほどしか読み通すことができなかった。
そして洗面所へと駆け込み、胃液しか出なくなるまで吐いた。
全身が水で濡れたように湿っている。嫌な汗だった。高熱でも出したように全身が熱く、そして寒かった。
怖い。これほどの恐怖を感じたのは、生まれて初めてだった。
だが、逃げていては何も始まらない。
こうして亜美は、悠司が住む……かつて自分が暮していたアパートの扉の前に立っている。
あの夜の恐怖を思い出し、逃げ出したくなるのを、亜美はぐっと堪えた。
手を振り上げる。小刻みに体が震えているのがわかる。
深呼吸をした。
呼吸さえもが奇妙に震えている。
軽く握った拳を反転させ、手の甲で三回ドアを叩く。
「はい」
すぐに声が返ってきた。
ドアを開けて顔を出した者は、当たり前といえば当たり前の、悠司本人だった。
「こ……こんにちわ」
ようやく、それだけ声が出た。
初めて第三者の目で見る自分の顔は、まるで他人のようだった。
「亜美ちゃん、どうしたの? 家庭教師はおしまいのはずだけど……」
家庭教師? そんなことは報告書にはなかった。
彼と自分を結びつける接点など、どこにもなかった。なのに目の前の男は、自分を確かに知っているようだった。
怪訝そうな顔をする『自分の顔』を見て、亜美は顔から血の気が引いてゆくのがわかった。手足の末端が冷えてゆく。まるで貧血を起こしたようだった。
「そんなところに立っているのもなんだから、中に入らない? いや、別に下心なんて無いから安心して」
青い顔をしている彼女を心配して、悠司が亜美の肩をそっと抱く。
亜美の体が、びくんと跳ねた。
「あ、ごめん」
「いえ……」
亜美は靴を脱ぎ、履き物も揃えずふらふらと部屋の中に足を踏み入れる。
部屋の匂いはどこか懐かしく、しかし他人の物だった。男女の違いもあるのだろうが、好ましく思いながらも違和感を感じずにはいられなかった。
「これ、座布団。汚く見えるかもしれないけど、一応きれいだから」
悠司がドアを後ろ足で閉めて亜美に座布団を勧めた。部屋でごろ寝をする時に枕代わりに使っている物で、折り癖がついている。お世辞にもきれいとは言えないが、部屋の様子からすればましな部類に入る。
亜美は黙って受取り、少し湿った座布団の上に座った。
悠司は散らかし放題の台所からかろうじてきれいなマグカップを探し出し、インスタントコーヒーをいれはじめた。
やはり、都築悠司という人間はいた。それも、自分の他に。
「都築、いるかー?」
ドアを叩く音がする。
「はい。今、開けます」
悠司はコーヒーを台所に置いたまま、ドアを開けた。
「米借りられないかな? ちょっと今きらしちゃっててよ」
体に隠れて見えないが、どうやらこのアパートの住人のようだった。
「またですか。仕方ないなあ。今月だけでもう、5キロくらいあげてますよ?」
「すまん! この通り。今晩、麻雀で勝ったら返すからさ」
拝み倒すようにして小太りの男は何度も頭を下げる。悠司は仕方がないなと言いつつ、プラスチック製の米びつを開けて、コンビニのビニール袋に米を詰めてゆく。
「とりあえず三合もあれば十分ですよね」
「いや、五合欲しいなあ。おまえんところの米、うまいんだよな。そのへんのスーパーで買うのと、ひと味違うっつーか……んん?」
ようやく男は部屋の中にいる亜美に気づいた。
扉の向こうから無遠慮にこちらを眺めているのは、あの晩、乱交に加わった住人の一人だった。
「おっ、噂の彼女か。すごくかわいい子だな。羨ましすぎるぞ、こいつ!」
肘でどすどすと悠司の胸を小突く。
「そんな。彼女じゃないですよ。俺が家庭教師をしていた子なんです」
「家庭教師ついでに、こっちの方も教えているんだろ?」
腰を突き出しながら笑う男に米の入ったビニール袋を押しつけて悠司が言う。
「違いますって。ほら、彼女も迷惑そうにしてますし」
亜美は曖昧に微笑んで頭を下げた。自分のことを憶えていないんだろうか、と疑問を感じたが、すぐに思い至ることがあった。
瀬野木家の者が持つ不思議な力で、他人の自分に関する記憶を曖昧にしてしまえるのだ。母の叡美(さとみ)や姉の観夜はもっと強い力を持っているというが、亜美でさえこの程度の力を無意識にふるえる。調子が良ければ今のように、自分のことを完全に忘れさせてしまうことができる。
なるほど、夜な夜な男漁りをしても話題にならなかったのは、こうした理由があるからなのだった。そうでもなければ、今頃マスコミに嗅ぎつけられ、名家のお嬢様のご乱行などと騒ぎ立てられるの火を見るより明らかだった。
なぜこんなことを思い出せなかったのだろう。こんなことなど、小さい頃からわかっていたはずだ。自分の存在を隠すことは亜美にとって空気を吸うのと同じことだった。
おかしい。
やはり自分の記憶は混乱している。
瀬野木亜美としても、都築悠司としても……だ。
まだ悠司は、住民と話をしている。亜美は心を落ち着けるべく、座ったまま部屋の様子を眺めてみた。
匂いも、家具の配置も、置いてある物もほとんど自分の記憶にあるものと変わらない。懐かしさと共にわき上がる不安を、亜美はむりやり押し殺す。
机の方を見ると、パソコンが立ち上がっているのがわかった。亜美はパソコンをいじるとしても、ほとんどワープロとしてしか使用しないが、悠司はかなりハードに使いこなしている。
目を細めてじっと画面を見ると、なにやら数式らしいものがずらずらと並んでいる。何かのプログラム言語のようだ。ウィンドウの壁紙は、猫耳少女から中華娘へと変っている。
ようやく悠司はアパートの住人を追い返し、ドアを閉めて亜美のところにコーヒーを持ってきた。
「砂糖は2杯だったよね。あと、牛乳も半分入れてあるから。亜美ちゃん、カフェ・オ・レ好きだったよね」
「はい」
カップを受け取って、亜美は自分がカフェ・オ・レが大好きだったことをおもいだした。そうだ。ここ2か月、ずっと飲んでいなかったのが不思議なくらい、彼女はそれが好きだった。
少しぬるくなったコーヒーに口をつけながら、亜美は画面の方をちらちらと何度も見た。
「亜美ちゃん、パソコンに興味あるの?」
「え? ええ……」
悠司は立ち上がってパソコンの方に歩いてゆく。
「これさ、先輩に頼まれたプログラムなんだ。なんでも即売会で販売するゲームだとかで、俺は下請というか、3D格闘……と言っても亜美ちゃんにはわからないか」
説明し辛そうに悠司は頭を掻く。
「いいえ、わかりますよ」
「本当? じゃあ、話は早いや。モデリング……っていうか、キャラクターの制作は他の人の担当なんだけど、俺はそれを動かす部分をやっているんだ。以前先輩が作った見本はあるんだけど、やっぱり他人が作ったのはわかりにくくてね。3Dのオブジェクトを動かすプログラムはやったことあるんだけど、格闘ゲームみたいに複雑なのは初めてだから、いろいろとおぼえながら泥沼で作っているんだ」
「先生、泥沼じゃなくて、泥縄ではないのですか?」
「そ、そうとも言うかな」
悠司が妙に雄弁で、格好をつけているのがおかしかった。
その一方で、彼が自分の知っている悠司とは少し違うということにも気がついた。
確かに自分はプログラムの知識はあった。だが、先輩ともほとんど没交渉だったし、滅多に行かないが、即売会も買い専門だ。だが今ではプログラム言語のことを思いだそうとしても、ほとんど記憶にのぼってこない。
やはり、自分の中の悠司という存在は、亜美が作り出した幻なのだろうか。
亜美はコーヒーを座卓の上に置き、立ち上がって、ぼんやりとパソコンの方を見た。悠司は彼女に説明をしようとして、マウスを動かし、ウィンドウを幾つか閉じた。
「お、おっと……や、やばいなこりゃ……」
プログラム途中のウィンドウの下に隠れていたのは、過激なポーズをした女性の全裸画像だった。ビュアーのサムネイルは、そんな画像がまだ大量にあることを示している。悠司はマウスを忙しく動かし、次々とウィンドウを閉じてゆく。
心ここにあらずといった風情だった亜美は、ぶつぶつと独り言を呟きながら忙しく手を動かしている悠司の肩越しに画面を見ようと、背伸びをした。
「先生?」
よりによって、ペニスを挿入をされて喜んでいる女性の画像が大写しになっていた。
悠司は本気で慌て、彼女に見られまいと指でソフトリセットキーを何度も押した。ブルースクリーンが現れ、コンピューターをリブートさせてから悠司は気がついた。
「あっ、しまった! プログラムをセーブするの忘れてた」
額に手を当て、がっくりとうなだれる。
「昨日からの作業分が全部吹っ飛んじゃったよ……あーああっ……」
「ごめんなさい。私が変なことを言ったからですよね」
「いや、亜美ちゃんのせいじゃないよ。俺のミス。こまめにきちんとセーブをしていればよかったんだよ」
苦笑しながら振り返った拍子に、亜美の胸に手が当たる。
「あ、いや、その……ごめん」
柔らかい感触がした。どこまでも沈みこみそうで、それでいて手を押し返す確かな手応え。なぜか懐かしく、悠司は胸に当たっている右手を離せなかった。
亜美は驚いた顔をしたが、すぐに自分の手を悠司の手の上に重ね、彼が手を離そうとするのを押さえた。
「亜美ちゃん?」
薄い布地越しに感じる下着の手触り、そして彼女の体温、甘い体臭……。
悠司は空いている左手で亜美の肩を握り、引き寄せようとした。だが、彼女は反対に、彼を突き飛ばすようにして逃げた。
「ごめん」
反射的に悠司は謝る。亜美は彼を見て言った。
「悠司さん……私のことを、忘れてください」
胸の奥から熱い物がこみあげ、目尻から溢れ出る。
「突然、どうしたの」
「私……私……!」
自分でも混乱して何がなんだかわからない。うつむいて髪を振り乱し、頭を左右に激しく揺さぶる。
「わからないんです。何もかも。先生が、本当に私の先生だったのか、私が本当の私なのか、ここにくればわかると思ったのに」
両手を強く握り締め、うつむいたまま絞り出すように声を出す。
「どうしてだか、なぜだか、とにかく腹が立ってしかたがないんだ! 俺……それとも私? だから……だから!」
亜美は顔を上げて悠司を見つめた。
「今日は私の想いに決着をつけに来たんです。でも、やっぱり何も変わらないみたいです。私の記憶は……きっと妄想だったんでしょう。だから先生……悠司さん。私を、忘れてください」
亜美の目尻から、つぅ……と涙がこぼれ落ちた。
「コーヒー、御馳走様でした。さようなら」
振り向いて出口を目指して一歩足を踏み出した彼女を、悠司は背後から抱きしめた。
「亜美ちゃんのことを……忘れられるもんか」
「私は、あなたのことを、本当は知らないんです。私は、あなたに何も教わっていません」
「でも、俺は君の事を知っている。君は俺の事を、これから知ればいい」
「離して、ください……」
亜美は体をゆすって、悠司の拘束から逃れようとする。だが、しっかりとホールドされた彼の手の中から抜け出る事はできなかった。
「忘れて欲しいんです。お願い……」
亜美は目をぎゅっと閉じて、精神を集中した。たちまち心の奥底が冷えてきた。その冷気を体から放出する。体の芯まで凍てつきそうな寒さが、亜美自身をも凍えさせた。
(これで……悠司さんは私の事を忘れてくれる)
意識的に記憶をいじったのは初めてだったが、うまくできたはずだ。
だが、悠司の手は緩まなかった。
「ここで俺が手を離したら、亜美ちゃんは逃げてしまう。だから離さない」
背筋に悪寒が走った。
男に抱かれるのは初めてではない。だが、それとこれとは違う。『自分』に抱かれているという感覚が、彼女の中の悠司の部分を狂わせる。
そうだ。確かに自分の中には、亜美と悠司の二人の人格が存在する。それに間違いはないと、ようやく確信できた。
「亜美ちゃんは、亜美ちゃんだよ。人は誰だって変わる」
悠司は亜美を抱きしめたまま言った。
「だから、忘れるなんて言っちゃダメだ。そんなの寂しすぎるよ」
「悠司さん……」
彼の手が緩んだ。亜美は体をよじって悠司から逃げ出した。
「でも、だめなんです。だめだから……」
(私ガ……コワレテシマウカラ)
もう一度、全力で彼の記憶を奪おうとする。
悠司に肩をつかまれ、体の向きを変えられた。亜美は自分の魂も凍れとばかりに全身全霊を込め、彼の記憶を消去しようと心を凝らす。
引き寄せられた。そして、温もりが彼女を包む。
「亜美ちゃんの体……ひんやりとしてて、気持ちいいな」
正面から抱きしめられた途端に、体が熱くなるのがわかった。
彼の体臭が亜美の鼻の奥をくすぐる。
股間が熱く蕩けてゆく。
欲しい。
目の前の彼の、ペニスと精液が欲しくてたまらない。彼の生命を感じ取りたい。押さえきれない欲望が亜美の奥底から込み上げてくる。
自然に亜美は、笑みを浮かべていた。
そう。あの、魔性の笑みを。
「悠司さん。インターネットでエッチな絵を見ているんですか?」
「見られてたか……」
顔を少し背けて、悠司はすまなそうな顔をする。
「亜美ちゃんが来るってわかっていたら、ちゃんと見えないようにしといたんだけどね」
亜美の体から力が抜けてゆく。
細身だが、しっかりとした肩幅の男性に身を委ねる感覚は、母親の手の中にいるのとは違う安心感がある。
それでいて、一刻も早く離れたいという気持ちもある。
矛盾しているが、彼女の中ではどちらも正しい。女でありながら男であり、男でありながら女である自分にとって、この程度のことは矛盾にもならない。
迷いが、熱した鉄板の上に乗せられたバターのように溶けてゆく。
それでもまだ彼女は迷いを完全に断ち切れない。
亜美は再び悠司の手から逃れ、彼と一歩間を置く。
床に転がっていた箱に足を取られ、下を見た。家庭用ゲーム機のパッケージを踏みかけていた。確かこれは、義兄の雄一郎が勤めているファンタズムという会社の製品だったかしら……と亜美は思い出した。
なんでこんなことに心を奪われるのだろう。その何気ないことで張り詰めた緊張が解け、亜美の心の枷が、すとんと抜け落ちた。
まだ心の一部は目の前の男を拒否しているが、圧倒的な他の部分が彼を求めているのがわかる。
(だめ。もしかしたら“俺”なのかもしれないのに、抱かれるなんて……)
しかし、口から出た言葉は彼女の心とは裏腹なものだった。
「私を抱いてください。セックス……しましょ?」
悠司が恐る恐る手を伸ばし、彼女に触れた。亜美は体を投げ出すように、悠司に身をゆだねる。
体が、凍えるように熱く震えた。
もう――戻れない。