そのうちに、という言葉を男が残して、なんと3ヶ月が過ぎた。
正確な日付はわからない。
2ヶ月ほどになると、士狼の日付感覚は完全に失われていた。1週間が
7日であるということも、もはや意識できなくなってきていた。
変わったことといえば、着替えの服が豊富に用意されるようになったことだろうか。服はシャワーのある部屋に届られる。士狼が寝ているうちに着替えなどを交換しているのか、士狼がどれだけ注意を払っても部屋に出入りする人間に巡り合うことはなかった。何度か寝ているふりをして脱走の機会をうかがったが、まだ一度も隙を見せたことはない。
誰とも話さない日々は士狼の理性を徐々に奪っていった。
最初こそひとりごとが増えたが、今ではもう滅多に言葉を口に出すことはない。日にちを数えるのもやめた。もはや日付に意味を見出すことができなくなったからだ。
退屈は最大の敵だった。
毎度の食事とシャワーだけが単調な日々を紛らわす数少ない手段だった。今では軽い運動もしているが、狭い室内でできることは限られている。それに腹筋も腕立て伏せも、3回と続いたためしがない。今でもストレッチの前に腕立て伏せを試みているが、いまだに5回の壁を越えることができていなかった。
反対に、ストレッチは驚くほど体が動いた。股割りもぴたりと決まるし、そのまま前傾して顔が床に着くのも簡単だ。男女の柔軟性の違いに、士狼は内心驚きを隠せなかった。
今では、食事の前後に必ずストレッチをして体をほぐしている。体を動かすのは楽しいし、退屈が紛らわせるからだ。
ストレッチをした後にシャワーを浴びる。今では一日に4回から5回はシャワーを浴びている。
トイレとベッドが同じ部屋にあるから、体を清潔にしなければならないという理屈は、単なる言い訳に過ぎなくなっていた。
軽くシャワーを浴びて、全身を濡らす。
そしてボディーソープを手の平にたらして、体にこすりつける。
頭の中のスイッチを切り替える儀式のようなものだ。こうしてシャワーを浴びている間だけは、退屈な時間を忘れることができる。
胸に両手が添えられる。
下から押し上げるように、そして親指と人差指で輪を作るようにして乳房を締めつける。赤褐色のソープでぬめる指を滑らせ、乳首に向けて絞るように輪をすぼめてゆく。
まるで乳牛の搾乳をするように。
なんどもそれを繰り返していると、やがて陥没した乳首が頭をもたげてくる。今度は親指の腹で、乳首をこねるように少し力を入れてくるくると回転させる。
「んふぅ‥‥はああ‥‥」
おもわず熱い吐息が漏れる。
このまま十分以上も乳首いじりをしていることもある。腰が熱く痺れ、秘処が潤ってくる。
士狼は股間の寂しさを微かに感じながら、亀裂に指を這わせる。
濡れた股間の手触りは、もうすっかりなじみのものになっている。
今、自分はペニスを握って自慰をしているんだと、士狼の思考は自分の行為を正当化して置き換えていた。
単調な毎日が士狼の正常な思考能力を徐々に奪っていたのだ。
ふくらみに2本の指をあて、亀裂に沿ってゆっくりと指を前後に動かす。
息がだんだん、小刻みに、荒くなってゆく。
やがて亀裂の上の方、少し膨らんだあたりがしこってきて、指先で感じられるようになってくる。
士狼はそこを重点的に指で責めたてる。
指でつまむには小さすぎる、ひだの中にうずもれたそれを執拗にほじくろうとする。
指の動きだけを見れば男が自慰をするように、突起を持って前後にこすっているようだ。
鼻から抜けるような甘えた声は士狼の耳に入っているのだが、素通りしてしまっている。いや、それをBGMに、いっそう動きを加速させる。壁に手をついて、お尻を突き出すようにして右手で自慰にふける。
手はボディソープと、胎奥からあふれだす愛液でぬるぬると滑る。
そのうちに壁に背を預けて、左手も参戦させる。
ボディーソープはすっかり流れ落ち、股間の泡の原因はもはや、自分から溢れ出す体液になっていた。
立ったまま足を壁の両端に付くように広げて、少し腰を落す。
乳首でそうしたように、右手の指で突起を少し押さえつけぎみにしてゆっくりと円を描く。指が滑る。感じるポイントを外すと、すぐにまた突起へと指が自然に伸びてゆく。
腰が壁から滑り落ちそうになる。
まるで射精したように股間から吹き出す愛液。
視界が真っ白になって、床に崩れ落ちてしまう。いつもこうだった。最近では達してから醒めるまでの時間も、体が冷えてしまうくらいまでかかる。だんだん快楽が深くなっているようだった。
自分で何をしているか、士狼は自覚していなかった。
単調な毎日が夢と現実の境目を壊し始めているのだ。
気を取り戻すと、士狼はゆっくりとタオルで体を擦り始める。
達したばかりの体はどこも敏感だ。まるでさっきまでの行為をトレースするように、いつまでも体を擦り続ける‥‥。
夢か現実か区別ができない曖昧な日々は、今日も続く。
次の間にはシャワーや着替えばかりではなく、歯ブラシやコップまで用意されていた。コップは樹脂製で割れそうもなく、歯ブラシもまたフォークやナイフと同じように、次の日になると柔らかくなって武器としては使えそうになかった。
ストレッチで軽く汗を流した後にシャワーを浴び、そして食事。食事の後は歯を磨くのだが、歯ブラシに伸ばす手がためらいがちなのには理由があった。
歯を磨く時に鏡に映る、自分の姿が恐いのではない。
久しぶりに歯を磨いた時の電気ショックにも似た感覚を、士狼は忘れることができない。
歯茎をこする柔らかめのブラシは、痛いくらいの刺激があった。やがてそれは、頭全体に広がり思考を虚ろにさせる。機械的に手を動かしていた士狼だが、手が滑ってほほの内側を突いて我にかえった。
「なにやっているんだろうなあ、俺」
歯ブラシを咥えたまま、もごもごとしゃべる。口の中が熱く感じるのは気のせいだろうかと思いつつ。
歯ブラシが差し入れられるようになってから、食事も固いものが増えてきた。
今日の夕食のごぼうのサラダは、噛むたびに歯茎に沁みるような刺激があったし、肉汁が滴り落ちるハンバーグは口の中を蹂躪し、舌に絡みつく情熱的なキスを見舞う。パンは噛みちぎる悦楽とぱさついた感触で口の中を乱暴に撫でまわし、固目の焼きプリンは舌と口腔全体を愛撫されるような艶めかしい味わいがした。最後に飲む水さえもが快楽の締めとなり、つかの間の快感を洗い流して寂しさを演出するのだ。
意外というか、食事はいまだに同じ組み合わせのメニューに巡り合ったことがない。似たような献立でも必ず少し味付けやソースの類に工夫がしてあったし、栄養のバランスもよく考えられているようだ。
こうして知らずのうちに、士狼は食事のたびに快感を刷り込まれていた。いつしか久狼は、毎度の食事を待ちわびるようにさえなっていたのだった。
坂元弓奈が高前士狼と連絡がとれなくなって、やがて半年になろうとしていた。
「士狼ったらどこに行っちゃったのかしら‥‥」
会社には退職届けが提出されており、アパートもいつの間にか荷物が運び出され、彼の痕跡はどこにも残っていなかった。携帯も通じず、やがて基本料金未納で利用停止されてしまったようだ。
警察に失踪届けを出したものの、部屋をちゃんと引き払っていることなどから、自主的に姿を消したのではないかと言われた。
「まあね、世の中にはふっと姿を消したくなることだってあるんだよ」
「でも彼は、私と結婚するはずだったんです」
弓奈の反論に、年のいった警官は穏やかな笑みを浮かべて言った。ここ半年ですっかり顔なじみになった人だ。
「人には、他人にいえないことだってあるものさ。あなたとの縁が切れて
いなければ、そのうちきっとまた会えますよ」
いつも最後はこう諭される。一種の儀式というか、カウンセリングのようなものだ。こんな状態もずいぶんになる。
勤務の合間をぬって彼の行方を追っているが、行方に繋がりそうな手がかりはみつからない。結婚資金にと貯めておいた定期預金の一部を取り崩して探偵も雇ったが、かなりの金額を費やしたのにも関わらず、成果はほとんどなかった。
まるで宙に溶けて消えたような感じですよ、と大した成果のない報告書を前に、探偵はすまなそうに頭を下げた。
報告書を左わきに挟んで、弓奈は夜の住宅街を家路に就く。
「ほんとうにどこに行っちゃったのかしら‥‥」
「知りたいですか?」
突然の声に弓奈は驚いて封筒を落し、声の方を振り向いた。