高校3年生の夏になる頃、突然、父がアメリカに転勤することになりました。
母は、卒業まで間が無いのだからこちらに留まったらとも言ってくれたのですが、少なくとも5年間は戻る見込みが無く、将来帰国した時の経歴にプラスになるからということで、半年の在学期間を残して、私は両親と共にアメリカへ引っ越すことになりました。
ここでも私の仮面は、心を裏切ったのです。
まあ、素敵。東海岸なのが少し残念だけど、夏は西海岸に行ってみたいわ、などと嬉しそうに語ってしまう自分には、唖然とするほかありませんでした。そのうち、本当に楽しみになってきてしまったのだから恐ろしいものです。
こうして私は夏休みが終る直前に、渡米することになったのです。
私の行っていた高校と姉妹校であるアメリカの高校では、受け入れ態勢が既に整っていました。ここでも私の偽りの仮面が役に立ち、最初こそぎこちなかった英語にも、次第に慣れてきました。おそらく男の私だったら、英語も話せず、家に引きこもりになっていたでしょうね。
表向きの明るさとは裏腹に、私の心の奥底には黒く澱む破壊的な、どろどろとした黒い感情が渦巻いていました。絶望‥‥そうです。残りたった一回のチャンスを、私は失ってしまいました。
この時の絶望は、誰にも理解できないでしょう。このまま女でいるしかないのかと、私は環境の変化もあって、一時期情緒不安定になっていました。
そんな、どことなく自棄に見える私を、不思議に思う人も少なくありませんでした。容姿にも才能にも恵まれているというのに、彼女は何が不満なのだろうという噂を何度か耳にしたことがあります。
それはそうでしょう。日本人離れしたグラマラスな肢体。そのまま切り取って鑑賞してしまいたくなるほどの見事な曲線を描く、モデル顔負けの脚。美貌、才能‥‥すべてが女性の憧れを具現化したような完璧さでした。
これ以上魅力的になりたくないと太ろうとしても、私はなんら変化しませんでした。ほかの人から見れば羨ましいことなのでしょうが‥‥。
ハイスクールでも、私は多くの交際の申し出を受けましたが、すべて断りました。呪いもこのくらいの融通はきくようです。そうでもなければ私はとっくに、ハイティーンの旺盛な性欲に蹂躪されていたでしょう。ただ、彼らはストレートにセックスを要求してくる分、陰湿さはありませんでした。
やがてハイスクールも卒業し、私はカレッジへと進むことにしました。
そして私はカレッジ入学の年、クリスマスイブの夜に、女としての初体験をしたのです。
彼は5歳年上のドイツ系アメリカ人で、ハイスクール時代の女友達の従兄でした。とても優しく、素敵な人でした。彼はまるで私を壊れ物のようにそっと扱いながら、長い時間をかけてゆっくりと女の悦びを教えてくれたのです。
ああ、今も彼のことを思い出すだけで濡れてしまいます。自分が肉欲に貪欲な卑しい人間だということを、嫌ほど思い知らされるのです。
彼とのセックスはとても素敵でした。
日本の男には無い、優しさと鋭さ。長く長く焦らされて、挿入をされても、まるで海の波のように捕らえ所のないリズムで私を翻弄します。精を出した後も、彼の愛撫は終る所を知りません。ゆっくりと興奮が静まるまで、私の体を撫でてくれるのです。そうしているうちに再び高まって、また彼を求めるようになるのです。
もし男に戻れたら、こんな風に女性を抱けるのだろうかと思いながら、私は彼とのセックスに溺れました。彼にはオーラルセックスも、アナルセックスも許しました。全ての処女を彼に捧げたのです。
彼だけではありません。私はアメリカで多くの人とセックスをしました。
もしかしたら男に戻れるかもしれないという希望を抱いて、仕方がない、これは男に戻るために必要な『儀式』なんだと思っていましたが、その実はセックスの快感に溺れているだけだったのでしょう。
気がつけば私は、すっかり女性の快感に馴染んでしまっていました。今ではもう、男の時の刹那的な快感をほとんど思い出す事ができません。
彼以外にも大勢の男達に抱かれ、淫らな遊戯やドラッグ、テクニックを仕込まれました。幸いにもドラッグには深入りしませんでしたが、以降の私は、ほとんどの男が音を上げるほどタフにセックスを求めるようになりました。
そう。私は昼間は淑女、夜は娼婦を地で行く女になっていたのです。
しかし、どれだけセックスをしても満ち足りることはありませんでした。多くの場合、折から流行し始めたエイズの影響もあってコンドームを着用することがほとんどだったのですが、私はヴァギナに精液を満たしてくれないことには、疼く体を静められなかったのです。
そんな私を支え、愛してくれたのが、私がヴァージンを捧げた彼でした。
彼は真摯に私を愛してくれました。
戸惑い、そして拒む私を彼は優しく、時には距離を置いて見守ってくれたのです。私がセックスに溺れきって破滅しなかったのは、彼のおかげです。
まだ若手の社員で会社の仕事で忙しいにも関らず、彼は私が電話をすると、車を夜中に何時間も走らせてでも飛んで来てくれました。
私が男を愛しきれないという悩みも、彼には話しました。慣れたとは言え母国語ではない英語で、言葉を選び、考えながら、つっかえながらの私の話は支離滅裂で、呪いのために口に出せない隠された真実も相まって、自分でもわけがわからないものでした。
それでも彼は最後までじっと、辛抱強く最後まで聞いてくれました。そして片言の日本語で、だいじょうぶ、僕がいるからと慰めてくれたのです。
この時の私の感情は、とても言葉では言い表せません。
安堵、怒り、絶望、歓喜‥‥矛盾する様々な感情が一気に吹き出し、泣き出してしまいました。言葉も無くただ涙する私を、彼は私の感情が静まるまで、大きな体で抱きしめてくれていてくれたのです。
男性の体に包まれていることに安心して心が安らいでゆく事に私は恐怖し、その一方で、これでいいんだとも納得していました。
‥‥私は自分でも気づかないうちに、確実に変わり始めていたのです。
こうして7年の月日が経ちました。、
私は大学を卒業し、大学院に進んでイギリスの古典英語を専攻するようになりました。日本人である私にとって古英語は難しく、てこずりましたが、一方でライフワークになりそうな手応えと充実感を感じていました。
彼とは週末にはお互いの家を行き来する仲になっており、あちらの御両親にも紹介されていました。私も、いずれは‥‥というほのかな期待を感じていたのも確かです。
狂ったようにセックスに溺れていた時期は過ぎ去り、この時は彼とも一月に数度、肌を合わせる程度にまで落ち着いていました。穏やかな環境が私を変えたのでしょう。
彼とは長期休暇で、一緒にアメリカ中を見て回りました。
本当に幸せでした。こんなに幸せでいいのかと錯覚してしまうくらい‥‥。
しかし、こんないつまでも続くと思われた平穏な日々は、高校生活と同じように、突然終わりを告げました。
父の海外勤務が終わり、日本へ帰国するようにとの辞令を貰ったのです。
散々迷った挙げ句、私は両親と共に日本に戻ることにしました。
日本。なんと懐かしい響きなのでしょう! 私は今まで感じることがなかった望郷の念が胸に溢れ、戻りたくて仕方がなくなってしまったのです。
彼とは‥‥別れました。私が振ったのです。
日本に戻ることを告げた数日後、彼は私に指輪をプレゼントしてくれました。
エンゲージリングでした。
でも、私はそれを受け取りませんでした。これを受け取ってしまったら、自分は本当に女になりきってしまうようで、怖かったのです。そして、何よりも彼に強く強く惹かれている自分に恐怖していました。
そうです。強制力が無くても、いつの間にか心が女へと大きく傾いていたのです。いいえ。私は既に、女そのものでした。
恐ろしいことです。
同性愛者になってしまった気は、まったくしませんでした。にも関わらず、私は彼を‥‥愛していました。いつの間にか私は、当たり前のように男性に好意を抱くようになっていましたのです。
男であったことを、ほとんど完全に放棄かけていました。
それも、自発的に。
私は悩み、煩悶しながら考えに考え抜き、決断を下したのです。
彼に断りの電話を入れる時は、本当に胸が痛みました。
その痛みは、そう。まさしく失恋の感情そのものだったことを、私はあとになって知りました。
空港で彼の顔を見たとき、私の目から涙がこぼれました。溢れた涙で、彼の姿が見えなくなるほど‥‥。
日本に戻ってから彼からは何度か手紙が来ましたが、私は返事を出しませんでした。いいえ。それどころか一度も封を開ける事は無かったのです。
そして一年ほど前に、一通の絵葉書が届いたのを最後に、彼からの手紙は途絶えました。
最後の絵葉書に書いてあった言葉は、
「結婚しました。君も幸せであることを祈っています」
というものでした。
私は今でもこの絵葉書を、大切に残しています。
未練、なのでしょうか‥‥。
私にはもう、わかりません。