『秘密』

4

  朝目覚めると、先輩はいませんでした。
 なにやらぼうっとした頭を振ろうとして、私は異様な感覚をおぼえ、全身に鳥肌をたてました。
 全てが変でした。まるでビデオ越しに何かを見ているような、あらゆる感覚が何枚もの遮蔽物を通して感じるような、何ともいえない‥‥実体験しなければ決してわからないおぞましさでした。
 まるで風邪で高熱を出した時のように重く感じる体を起こそうとして、私はまず、目の前に垂れた髪の毛に気付き、そして胸に何ともいえない重みを感じました。目をそちらに向けてみると、豊かなバストが自分の胸についているのがわかります。
 だんだん、頭がはっきりしてきました。
 思うようにならない体を捻り、昨晩は先輩をバックから突いて彼女の乱れる様を楽しんだ壁面の鏡に自分の体を映してみました。
 鏡に映った私は、あまりのことに驚きを通り越して気が遠くなりそうでした。
 先輩とは違う女性が、そこに居ました。
 少々邪魔だと思うほど豊かな乳房が広がり、栗色に染められた長い髪は腰まで届きそうなほどでした。私が手を動かすと鏡の彼女も手を動かし、顔を動かすとやはり同じようにします。
 間違いなく、これは自分だと理解するのに、5分程もかかったでしょうか。
 理解はできても納得できませんでした。
 どうして、と呟く声もやはり女性の細い声。
 しばらく呆然としていた私でしたが、先輩がどこにいるかが気になり、部屋を探し始めました。しかし、先輩はどこにもいませんでした。そればかりか、私が着ていた学生服が、財布だけサイドボードの上に抜き取って置いてあり、部屋から消えていました。
 後に残っていたのは‥‥そう。女生徒の制服でした。

 彼女が身に着けていた下着、とくにブラジャーは私には少しきつめでした。頭の中に自然に入り込んでいた女性としての知識が、これでは胸に跡が残ってしまうと告げていました。
 制服は少しゆるかったのですが、きちんと着る事ができました。ブレザータイプだったので上はさほど違和感を感じませんでした。しかしスカートはどうしても駄目でした。コートが残っていたので、これだけを羽織ってとも考えたのですが、それではまるで露出狂の変態です。
 悩んでいる私を後押ししたのは、フロントからの電話でした。精算は先に済ませてあるという言葉に内心ほっとしながら、私は覚悟を決めてスカートを穿きました。
 腰は指2本分ほど緩めなのに、胸周りが少しきついことに密やかな喜びを感じ、私は震えました。これは女性の感情です。男は自分の胸の大きさや腰の細さを他人と比べて喜んだりはしません。
 わずかな間に、私の心は確実に女に染められていたのです。
 恐怖に脅えながら、私は背を屈めるようにしてホテルを後にしました。
 まだ時間は朝の8時を少し過ぎたあたりでした。土曜日でしたから、通勤ラッシュもさほどのことはありませんでした。それでも、自分に他人の体が触れる度に、私は大袈裟なくらい脅え、震えていました。
 電車を降り、駅から自宅へと歩いて行きます。もちろん、私の両親が住んでいる家です。そこしか私が帰る場所はないのですから。
 表札の名前が変っていなかったことに安堵を感じると共に、私は息子‥‥いいえ、もう娘になってしまいましたが、自分の子供であると思ってくれないのではないかという恐れを抱きました。
 玄関の扉は鍵がかけられていました。鍵を持っていない私は勇気を奮い、呼び鈴を押しました。ドア越しに懐かしい母の声が聞こえてきました。
 ああ、たった1日、いいえ、半日しか会わなかっただけなのに、涙が出るほど懐かしい声でした。

 ドアを開けた母は、私の顔を見て少しも疑問に思わず、おかえりなさいと声をかけてくれました。
 ここで思い出したのが、私の男の時の名前です。
 ところが、その名前を口に出そうとした瞬間に、心の中からその名前が、溶けるように消えていってしまったのです。
 この恐怖は、誰にもわかってもらえないでしょうね。
 自分が男であったという記憶はあるのに、口にしようとすると記憶が消えてしまう。その代わりに、女の記憶が‥‥偽りの記憶とすり変わってしまうのです。そんなことは無かったと知っているのに、偽りの記憶は懐かしささえも私の心に生じさせるのです。
 呆然と立ち尽くしている私を、母は何をしているのよと言って家の中に引き入れてくれました。もしかするとあの時、母がこうしてくれなかったら、私は発狂してどこかで死を選んでいたかもしれません。
 驚いた事に私が住んでいた部屋は、何もかもが大きく変わっていました。もともと整理が嫌いで多くの雑多な物であふれかえっていたはずの私の部屋は、すっきりと片付き、華美にならない程度に女の子らしさがある内装になっていたのです。
 そしてなによりも、私は違和感を感じるどころか、どこも変っていないという偽りの安堵の感情で満たされてしまったのです。
 身の回り品のほとんどが知らない物ばかりなのに、私の感覚は記憶を裏切り、自分の「巣」であることを認めてしまっていました。
 ベッドに横たわっていた私は、アルバムの存在を思い出して飛び起き、物入れの中を捜し始めました。
 アルバムはすぐに見つかりました。
 震える手でアルバムを開くと、そこにはやはり、私が女の子であった証拠の数々が目に飛び込んできました。私は耐えきれず、アルバムを閉じて押し入れの奥へと隠したのです。

 私は制服姿のまま、再びベッドに横たわって震えました。
 母が朝食だよと呼びに来ても、断りました。食欲なんてありませんでした。
 甘美な時間の後に待っていたのは、悪夢のような現実だったのです。
 それから私は、自分が本当は男であったことを知らせようとして、色々なことを試してみましたが、全ては徒労に終わりました。
 それどころか、男としての記憶の多くを女性のものに塗り変えることになってしまったのです。言葉に出すことはおろか、紙に書いたりワープロに打ち込もうとしても、記憶が薄らいでいきました。
 なんと恐ろしい呪いなのでしょう。
 そう‥‥呪い。
 これは私にとって、呪い以外の何物でもありませんでした。恐らく先輩は私にこの呪いを押し付け、自分は元に戻っていったのでしょう。
 ですが、誰が私と入れ代わりに男になった先輩なのか、私にはわかりませんでした。勉強ができる先輩と対象を絞ってみても、誰もが怪しく、誰もが違うように思えました。
 もちろん、あちらから私に近づいてくることはありませんでした。
 私は記憶を失わないようにしながら精一杯の努力をして探してみましたが、受験を間近に控えた3年生が学校に出てくることはほとんどなく、人探しは徒労に終わりました。
 途方に暮れているうちに3年生は卒業し、とうとう私は先輩の手がかりを失ってしまったのです。

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