「ほら、もっとちゃんと舐めなさい」
「はい。お姉様……」
俺は籐椅子に腰掛けた女の脚を両手で押し抱き、舌を伸ばして花の匂いがする足の指を舐めている。
呆れるほど贅沢なマンションの最上階、その一角にあるサンルームで俺は奴にかしずいている。あいつも俺も、全裸だ。だが、冬だと言うのに寒さは全く感じない。この部屋は年中、快適な気温が保たれている。
だから俺は、ずっと何も身にまとっていない。いや、正確には眼鏡だけが許されている。これが奴の好みだからだ。
「……手が止まっているわよ」
「お許しください、お姉様」
奴の体が動いた。何千回となく繰り返された動きを察して体がすくもうとするが、強烈に刷り込まれた意思が反射さえも許さない。
鋭い痛みが背中に走る。
鞭だ。だが肌にはわずかな跡しか残らない。それだけ奴は、鞭に熟達している。痛みだけ与えて、決して跡は残さないのだ。なにしろ、俺は奴の今の所一番のお気に入りときている。食事も最上、化粧も極上、何もかもが普通では考えられないほど贅沢な代物ばかりだ。
「まだ男として考えているの? ここまでして落ちない娘(こ)は久し振りよ」
「申し訳ございません、お姉様」
俺は長い髪を決して奴に触れないように気をつけながら、深々と頭を垂れる。心は悔しくてたまらないのに、涙すら出ない。奴の何ヵ月にも及ぶ調教が、俺の心と体を分離させる原因になった。
痛みも、苦しみも、今の俺には別人のように感じられる。人形になってしまったようだ。
だが奴は、いいなりになる俺の所作や表情の中に、反抗心を感じることができるという。それが奴にとっては、たまらない快感になるのだそうだ。
自由になる人など、たくさんいる。だが、ここまで心が折れない人は珍しいのだという。
大概は、女にされてしまった時点で砕ける。
次に、女が告げる言葉で、ほぼすべての人が意思を失ってしまう。
奴は男を女にして、そいつを調教して飼うのを無上の喜びとするイカレタ女なのだ。
そう……。
俺は奴に女にされてしまい、奴の下で飼われているのだ。
***
どうしてこんなことになったのかというのは、あまりにも不条理すぎて思い出したくない。なぜならば、奴は他人の魂を担保として自分の望みをかなえるという、卑怯極まりない手段で、ここまで財産を築いたのだ。
奴の背後には悪魔がいる。
俺も何度か見掛けたが、奴とは特別な形で契約を結んでいるのだという。悪魔は奴の求めに応じて男を女に変え、そいつが絶望して死んだ時点で魂を刈り、女に対価を支払うそうだ。
この高価なマンションも、土地から建物、全てが奴の所有物だ。高価な家具、衣服、アクセサリー、これらは皆、何十人もの男の魂で購われた血の対価だった。
奴の今の姿も、悪魔によって絶世の美形へと作り替えられている。元がどんな姿だったか、何をしていたかなんて俺にはわからない。
非凡な奴の姿と比べると、俺の体は貧弱だ。
いや、今時のアイドルと比べても遜色の無い容姿なのだが、奴の圧倒的な魅力の前では何もかもが霞む。
胸はあいつの好みなのか、とても小さい。谷間などとてもできるはずのない小ぶりな乳房だが、全裸で過ごす事を余儀なくされている俺にとっては、こちらの方がありがたい。
恥毛は薄い。ラヴィアは……考えるだけで気持ちが鬱々としてくるので、これ以上俺の女の体を語るのはやめておこう。
俺にはプライバシーが無かった。
排泄はかならず、奴の……お姉様の許しを得てしなければならない。大抵は、奴の目の前で排泄させられることになる。そのまま奴の指で女の部分をまさぐられ、残尿を無理矢理出させられたり、失神するまで敏感な部分を責め続けられることもある。
週に一度は、浣腸で責められる。
腹が膨らんで脂汗が浮き、顔が倍に膨れ上がったように感じて頭の皮が弾けそうになっても、奴は排泄を許さない。俺の心がどんなに望んでも、体は完全に奴に躾られてしまっている。
出したくても出せない、この恐怖……わかってもらえるはずがない。
奴は俺の耳元で、俺の罪を語るのだ。
「あなたは掲示板でよけいなお節介をしたのよ? それでどれだけの人が迷惑したとおもうの? 軽率だわ。だから……私があなたを調教するの。もう二度と人に迷惑をかけないようにね」
「はい、お姉様……」
奴が俺の瞳を覗き見る。毒々しいまでに美しいルージュが塗られた唇がにぃっと吊りあがり、笑いの形をとった。
「反省してないわね。言葉では従順だけど、心では謝っていない。そうでしょう?」
「いいえ、お姉様」
奴には俺が決して逆らう言葉など口にすることができないのを知っていて、こんなことを言うのだ。
調教……まさにあれは人に対する行為ではなかった。何があったか、微かに思い出すことしかできない。あまりに苛烈な仕打ちに、心が記憶をブロックしてしまっているのだ。
突然俺の家に金髪の肌も露な美女が現れ、次の瞬間にはあの女の目の前に立たされていた。奴の言う俺の罪とは、無垢な人を言葉によって傷つけ、多くの人を落胆させたというものだった。
確かに憶えはある。だが、それで何をしようというのかと笑った俺は、次の瞬間、鞭で引き倒されていた。ピンヒールで顔を蹴られ、短い鞭で乱打された。抵抗する余裕などまったくなかった。
気がつくと俺は鏡の前で大の字に両手足を縛られ、吊り上げられていた。
鏡に映っていたのは、今ではすっかり見慣れた女の体だった。
そこで俺は器具によって貫かれ、月日を忘れるほど責めに責め抜かれた。縛られ、鞭打たれ、犯され、性感を強引に引きずり出しては放置され、気がつけば俺は、女主人に従順な人形に成り果てていた。
奴が自慰をするなと言えば、俺は決してそれをしない。いや、できない。どんなに狂おしい性の渇きが体を襲おうとも、俺の男としての心と奴によって完璧なまでに植え付けられた従属する心が体を縛る。
立っていろと言われれば、俺は何十時間でも立っている。俺を立たせたまま、三日も家を空けた事もあった。大小を垂れ流しても、俺は一歩も動かなかった。
いや、動けなかった。
涙も出なかった。奴に流していいと言われるまでは流せないのだ。
三日後、ようやく家に帰ってきた奴は俺を見るなり腹を思い切り蹴飛ばした。
「誰が粗相をしていいと言ったの! このできそこないの糞豚! 舐めて掃除をしなさい!」
「はい、お姉様」
俺はしわがれた声で返事をした。
三日ぶりの水分は、奴の小便だった。久し振りに腹に入れたのは、俺の糞だった。その後奴は、俺を風呂に入れてやさしく足をマッサージし、よく我慢したと俺の頭を撫でた。
俺の偽りの心がときめく。お姉様に褒めてもらえたのが嬉しくて仕方が無いのだ。アメと鞭の使い分けによって、俺の心は狂ってゆく。奴の命令を心待ちにしている自分を発見し、俺はおののいた。
どこまで俺は、自分の心を保てるのだろう。
いっそのこと『折れて』しまった方がいいのではないか……。
あの『女』が現れたのは、そんな時だった。
「ハァイ♪」
奴のペディキュアの手入れをしている時に、あの『女』は突然姿を現わした。
「ちょっとあなた、どうやってここに入ったのよ!」
「ん? シャーリィンと同じ方法よ」
浅黒い肌の豪奢な金髪の女は、見事な黒のエナメルビスチェを着こなして、微笑んでいる。奴は、その一言で全てを悟ったようだった。
「あなたも悪魔ね。でも、あたしは契約で守られているわ。シャーリィン、来なさい! 私を守るのよ!」
だが奴は、悲しげに肩をすくめ、首を左右に振った。
「あの娘は地獄に戻ったわ。もう一度生まれ変わってやり直しをさせられているわ。実行主の存在が消えた以上、契約も無効だわ」
「ならば、この子の魂で契約をするわ。さあ、私を守ってとあの悪魔に言うのよ」
奴は俺の肩を押して、女悪魔の方へ押しやった。言葉が自然に出てくるのを、俺は止める事ができない。
「お姉様の命をお守りください。対価は私の魂で……お願いします」
「残念ね。他人に強制された願いでは契約はできないの」
「そんな……馬鹿な!」
奴は椅子から立ち上がって叫んだ。
「シャーリィンはやり過ぎたのよ。いくら上級魔になるためには多くの魂を集めなければならないとは言っても、世の理(ことわり)を無視してまで集めてはならないことになっているの」
「あなたに……あなたにそんなことを言う権利があるのっ!?」
奴は逆上していた。絶対の優位にあると信じて疑わなかったのに、自分が立っていたのは砂上の楼閣だったと知ったような、あまりにも哀れな狼狽ぶりだった。
「あるのよ。私は第一級限定解除魔族……ようするに、理に反しない限り全ての行為が許されている悪魔。名前は、あんた達の言葉でわかりやすく言えば、メイアってとこね♪」
「その何とかってのがどうしたっていうの。私は関係ないでしょ!」
「シャーリィンもやり過ぎたわ。でも、それをそそのかしたのはあんたよ。悪魔をたらしこむだなんて、あんたも大した男よね」
俺は思わずメイアという悪魔の方を見た。
「そう。この人はあなたと同じ、元は男だったの。ホストクラブで働いていてパトロンをみつけたのはいいけれど、その人の旦那に見つかって無理矢理女にされちゃったのよ。それで意趣返しにって、シャーリィンを使って六十二人の男を女に変え、調教してから魂の契約をさせたってわけ。このマンションから何から何にいたるまで、全部がその人達の魂で贖った、言わば血塗られた財産ってとこね」
「……さすがは悪魔ね。何もかもお見通しってわけか」
奴の口調がどこかふてぶてしい物に変わった。
「それで、私をどうするんだ?」
「決まってるわ」
メイアが微笑んで俺にキスをした瞬間、奴の足下のフローリングが煮えたぎったように波打ち、そこから血塗られた手が何本も伸びてきて体をつかんだ。
「な、何これっ!?」
逃げようとしても動けない。それどころか固いはずの床の中にどんどん引きずり込まれているのだ。
「助けてっ! あなた、私を助けなさい!」
奴が俺に命じた。だが、いつもは無条件で動くはずの俺の体は、不思議と奴の言うがままにはならなかった。
「この娘の条件付けは解除させてもらったわ。もう、あなたの命令は彼女には通じないわよ♪」
さっきのキスはそのためだったらしい。
「いやぁ! いやよ! なんて……なんて気持ち悪いんだ! ああ、熱い。熱くて気が狂いそうだ! 助けてくれえっ!!」
今までは天上の音楽に等しかった奴の声が、今ではガマガエルの断末魔にも劣って聞こえる。
「シャーリィンの苦痛に比べればその程度、どうってことないわ。彼女は全ての記憶と人格を破壊され、肉体さえも下級魔に劣る存在にまで貶められたのよ。
それに、あなたが地獄へ送り込んだ魂は、あなたの欲望のために苦しみを味わっている。だからあなたは、行きながらにして地獄の最下層へ送られて、魂の数億倍の苦しみを永遠に味わうことになるのよ」
「謝る! あやまるか……」
奴は一気に床の中に引きずり込まれ、姿を消した。
部屋は静寂に満たされた。床には何の跡も残っていない。
「それじゃあ、あたしはこのへんで……」
「待って!」
俺は後に振り向こうとしたメイアの手をつかんで引き止めた。
「私はどうなるんですか。お姉様に姿も心も変えられてしまった私は、これからどうやって生きていけばいいんですか」
「悪いけど、あたしにはあなたにそれ以上の手助けをする事はできないの。無償で働くのは禁じられているのよ。魂の契約は破棄されているし、もうあなたは自由の身よ」
「元には……戻れないんですね」
「そっ。ダァ〜メッ♪」
メイアはにっこりと笑って、俺の額を人差し指でつつく。
「まあ、いいじゃない。あの人の財産も、全部あなたが使えばいいんだし。そのくらいの融通はサービスしてあげるわ。どこからどう見ても完璧にしといたから。一生どころか、十回生まれ変わっても使いきれない金額よ。せっかくなんだから、思いっきり女をエンジョイしなさい♪ じゃあね〜」
言うだけいっきにまくしたてると、金髪の悪魔は部屋の中に小さな旋風を残して消えてしまった。
こうして俺は、奴の残した財産で暮している。
だが、どんなに贅沢をしても俺の心は満たされなかった。
嫌悪を無理矢理押し殺して、男にも抱かれてみた。何人もの美女と夜を過ごしてみた。鞭で叩いたり、叩かれたり、ありとあらゆるプレイを試してみた。
しかし、満たされるのはほんの一時だけだった。
徐々に俺の心は、癒されない渇きが支配するようになっていた。
他人が羨む環境も、俺には無意味だった。
メイアは消える前に、俺の手に奴を呼び出す古ぼけたルージュを残していた。
あいつは確かに、悪魔だった。俺の中にある願望をしっかりとわかっていたのだ。奴に調教され、引きずり出された、支配されたいという願望を。
俺が求めているのは、奴……いや、『お姉様』ただ一人……。
***
私は鏡の前に立ち、ルージュを手にしています。
私の願い……それはお姉様がいる地獄へ行くこと。お姉様と共に地獄で責められること。お姉様の罪を、少しでも贖いたい。それだけで頭が一杯なのです。
私にはお姉様にかしずくことだけしか考えられません。
男の心を装う必要は、もうありません。隠すことなんて無かったのです。
どうして私は、お姉様の本当の心をわかってあげられなかったのでしょう。私の心はそれを考えると張り裂けそうに痛みます。
ですから、私は、お姉様のもとに参ります。
たとえ罪が許されなくても、お姉様と共にいれば、地獄の痛みも快楽に変わるでしょう。腹を裂かれ、頭を潰されるのも辛くありません。いいえ、お姉様の代わりになるのならば、私は何度でも死に、生き返り、また殺されてもかまいません。
私を根本から変えてしまったお姉様……。
ですからお姉様には、責任をとってもらう必要があります。どこまでもついて行きます。永遠に離れません。
あなたを永遠に縛りつけたいという欲望を抑えきれないのです。もしかしたら、私こそが悪魔なのかもしれません。
だから、ほら。
鏡に移る私の姿は、シャーリィンという悪魔に似てきてませんか?
私は鏡にルージュで大きな円を描きます。円の内側の鏡が歪み、暗い深淵がそこに現れました。
果たして私は地獄に着いた時、人間の姿でいられるのでしょうか。
でも、かまいません。悪魔になっても、私はお姉様を愛するでしょう。そして、永遠に離しません。
待っていてください……お姉様。
===== END =====