夕方の5時半ごろ、僕・海原祐樹はいつものように学校から路地を抜け、自宅へと帰った。走れば5分とかからない。この近さこそが、僕がこの高校に入学した最大の理由だった。
「ただいまー」
そして、『海原』という表札の掛かった門を抜け、家のドアをあけて声を上げる。どうせ返事なんて返ってこない。それでも、3年前に事故で死んだ父母のしつけは、僕の行動の規範として大切に守り続けている。
「お帰りなさい」
と、唐突に、予想外に、迎えの挨拶。柔らかな女性の声。5歳年上の姉・美絵だ。
「あ、あれ?珍しいね、姉さんがこんな時間に帰ってるなんて」
予想外すぎて、僕は思わずどもってしまった。僕の唯一の肉親で、売れっ子の占い師である姉は、こんなに早く帰ってくることは滅多にないからだ。
「うん。ちょっと面白い資料を見つけちゃったから、試してみようと思って」
ぞくり。玄関を上がった僕を襲う、嫌な予感。
「資料?」
「そ。面白い秘薬の作り方の資料見つけちゃってねー」
「はぁ…」
やっぱり。思わず溜息をついてしまった。
姉は昔から、魔女の秘薬やらなにやら、アヤシゲな薬を作ることに熱中する妙な趣味を持っていて、その趣味の犠牲者は主として僕だ。
毎回のように、トカゲの粉末やらマンドラゴラのエキスやら、謎の代物を食事に混ぜては僕に食べさせて、実験していたのだ。
1年くらい前には、そのアヤシイ薬の所為で2週間も腹痛で寝込む羽目になった。非人道にもほどがある。
まあ、おかげで姉に食事は任せずに自分で作るようになって数年。僕の料理の腕は、その辺の女の子よりも上手い自信がある。
クラスの女子にも評判だ。…ちょっとむなしいけど。
「夕飯は僕が作るから、姉さんは手を出さないでよ」
当面の危険を回避する為に、釘をさしておく。
「うーん、祐ちゃんのごはん、たのしみだわ〜。あ、じゃあ、先にお風呂はいっちゃうね」
少し強く言い過ぎたかと思ったけれど、姉はまったく堪えていないようで、浮かれながら風呂のほうに歩いていった。
「さて、姉さんが変な事しないうちに夕飯の用意でもするか」
そして、僕はキッチンへと向かった。
ざぼん。
「はー」
僕は湯船に肩までつかって、ゆっくり息を吐き出した。
結局、心配していた姉の暴走もなく、夕食はつつがなく片付いた。
姉は、そのあとは何か研究をするとかで、自分の部屋に戻っていった。
「このまま何もしなければいいけど…」
そう呟いた僕は、ふと目の前が揺れているのに気付いた。
「あれ…?」
違う。揺れているのは目の前じゃない。僕自身だ。
「のぼせた…かな?」
立ち上がって、湯船から足を踏み出した丁度その時、頭がくらりとして、そのまま僕の意識は真っ暗になって、ほとんど何もわからなくなった。
ただ、湯船からは出たはずなのに何故か体は燃えるように熱くなって、溶けていってしまいそうな感覚だけが、僕を支配していた。
「はっ…」
蛍光灯のまぶしい光が目に入る。
僕は、湯船の横の床にべったりと、仰向けによこたわっていた。どうやら気絶していたらしい。
体が冷えていないことからすると、それほど時間はたっていないみたいだ。心臓が早鐘のように鳴り響いている。
僕は上半身を起こすと、胸に手を当ててみた。
ぷにゅ。どくんどくんどくん。
心臓を落ち着かせるために、そのまま深呼きゅ…ぷにゅ?
謎の感触が、手のひらにあった。そして、胸の方からも、何かがついているような感覚が伝わってくる。視線を落とした。
…………。
「なんだ、これ?」
僕の胸には、手のひらほどの範囲の膨らみが二つ、並んでいる。自慢ではないけれども、僕はこれまで一度も贅肉をぶよぶよいわせたことなんてない。
大体、何で急に胸に贅肉が付くんだろう。
「これじゃ、女の子みたいじゃないか」
それほど大きくはない、っていうか、むしろちっちゃい位だけど。
と、そこまで考えて再び視線を落としたとき、僕は、再び倒れそうになった。
最初のうちは、無意識が拒絶して気付かなかったんだと思う。
だけど今、確かに僕の視線の先、僕の股間には、当然男としてあるべきものがついていなかった。
そして。
「何だよこれ〜〜!!」
バスルームに、僕の―何故か女の子のように高く澄んだ―声が響き渡った。