時計を見ると、まだ7時50分。
悠司が高校生の時の感覚からすると、まだ学校が始まるまで1時間ほどあることになるが、校内には結構な数の生徒が歩いていた。
敷地は彼が通っている都心の大学よりもかなり広い。
校舎らしき建物は3階建と低く、校舎よりもその他の施設の方が目立っている。体育館もここから2つ見えるし、もう少し背の低いカマボコ状の建物もある。何かの室内練習場なのだろうか。郊外というのもあるだろうが、それでもこの施設は相当に力が入っている。私立なのだろうが、さぞや授業料は高いだろうなと悠司は想像した。
歩いている生徒は、制服姿とスポーツウェア姿が半々くらいだ。中には袴姿の生徒もいる。弓道部なのだろうか。
歩いているうちに、ある建物の扉の中から、スポーツバッグを持った生徒が出てきた。テニスラケットを持っている。
亜美は小走りに彼女の近くへと歩み寄り、ぺこりと頭を下げた。
「御早う御座います、楠樹先輩!」
「おはよう、瀬野木さん。今日は朝練はお休みだったわね」
「はい。明日はちゃんと出ます」
「がんばってね」
楠樹と呼ばれた上級生は、亜美とそう変わらない背丈だった。同じように髪を長く伸ばしているが、肉感的な生々しい印象の亜美と比べると、どこかしら作り物のような印象のある整った顔立ちの美少女で、まるで日本人形のようだ。
ふたりは横に並びながら部活動についての話を始めた。どうやらこの上級生もテニス部らしい。
彼女が話をする度に口許に持ってゆく左手の薬指には、あまり目立たない、小さな石が入った指輪がきらめいている。もしかしてこれは婚約指輪なのだろうか。校則に違反しないのかと悠司が思った時、亜美が口を開いた。
「前から思っていたんですけれど、先輩のその指輪、婚約指輪ですよね?」
しばらく答えはなかったが、少し嬉しそうな、それでいて今までよりも小さな声でそっと答えた。
「そうよ。本当は別の指輪なんだけど、学校につけてくるには目立ち過ぎちゃうから、代わりにこれをつけてるの」
「婚約者って、どんな方なんですか?」
「うふふ……秘密ぅ!」
両手を胸のあたりで合わせて、亜美の顔をのぞきこんだ。
「卒業したら結婚することになってるの。でも、皆にはまだ内緒よ?」
「やっぱりそうだったんですか。私達一年生の間でも話題になってるんですよ。先輩の"指輪の君"は誰かって」
「ごめんなさいね。先生にあまりおおっぴらに話してはいけないって注意されているの。だから、瀬野木さんも黙っていてくれるかな。結婚式には招待してあげるから」
その時、亜美が微笑んだ。
悠司の心に、何か引っ掛かるものがある。確か前もこんな事が……。
「じゃあ、口止め料は先輩のキスで」
「えっ?」
一瞬戸惑った彼女の隙を逃さず、亜美は彼女の肩を抱き寄せて唇を重ねた。フレンチでもなく、ディープでもない……親愛と情欲の狭間にある、微妙な口付けを。
湿った音を立てて、二人の唇が離れた。
楠樹先輩は悪戯っ子を咎めるような、だが、決して嫌悪はしていない表情で亜美を見つめた。
「高くついちゃったわね」
「……先輩、いつも婚約者の人とエッチをしているんですよね」
「いつもじゃないわよ」
「でも、しているんでしょう?」
先輩は顔を寄せて、耳元で囁いた。
「しているわよ。身体中が泡になって溶けちゃいそうになるくらいに」
「いいですね、先輩」
亜美がぽつりと言った。
「私、そんな人いないんです」
何十人ものペニスをしゃぶり、貫かれた口で言うことではない。あれだけ達してもまだ足りないとでもいうのだろうか。
「いつか、瀬野木さんの前にもそういう人が現れるわよ。あなたの王子様が」
「本当にそうだったらいいんですけれど」
「大丈夫! 私が保証してあげる」
「先輩に言っていただけたら、なんか本当にそうなるかもしれないって思えてきました」
「そうよ。願いはかなうの!」
先を行く先輩の背に向かって、亜美は言った。
「楠樹先輩、もう一つだけお願いがあるんですけれど」
「何かしら?」
「私の事、名前で呼んでくれませんか?」
「つぐみちゃん、って?」
「はい」
先輩に名前を呼ばれた瞬間、体に電撃のような痺れが走った。
そういえばこいつ、レズビアンって設定だったよなと悠司は思い出した。まさか、先輩まで「喰って」しまうんじゃないだろうか?
だが男相手の時とは裏腹に、悠司はかえって期待をし始めていた。
そうだ。女子校なのだ。
未経験かどうかはともかく、ハイティーンの少女がたくさんいる。男子禁制のめくるめく少女の園! これに期待せずにはいらない。
「それじゃあ、亜美ちゃん。また部活動の時にね」
「はい。楽しみにしています、先輩!」
手を振る先輩を見送る彼女の顔には、また例の笑みが浮かんでいた。
こうして悠司は、学校生活を傍観者の立場で見学することになった。
自分の思いのままに体が動けばいいのだが、そうはならない。秘密の園へ突撃をかけようにも体が動かないのでは意味がなかった。
だが、ボロを出す心配もない。
外界に意識を向けようと思わなければ、仮眠をしているような状態になることがわかった。聴覚だけが入ってくるが、それさえも生活雑音のように聞き流すことができた。
授業は退屈だったが、土曜日なのが幸いした。
半日の間、悠司は亜美を通してぼんやり見聞きしたが、特に面白い事はなかった。
ただ、このクラスで亜美がそれなりに人気があるのはわかった。授業が終ると、何人かが声をかけてくる。次の授業の事だとか、放課後は何をするかなど、たわいない事ばかりだ。その輪の中に、亜美は常にいた。
あんがい女子高生というのもつまらないもんだと悠司は思った。その一歩で、悠司はもしこれが幽霊だったら、もっとつまらないだろうなとも。
確かに幽霊はどこにでも入り込めるかもしれないが、それ以上何もできない。熱くたぎる血がなければ、肉欲も盛り上がりようがない。実際、今の立場は幽霊とほとんどかわりがなかった。この体に自縛されているようなものだ。時には感覚を取り戻せるが、自分の自由にはならないのが歯がゆい。
つまり彼は、山海の珍味、腕利きのシェフがこしらえた御馳走を目の前にしながら食べられないようなものだった。
悠司は山盛りの御馳走を目の前にし、動かない体に身悶えしながら……。
「亜美、亜美……つ〜ぐみっち!」
肩を揺さぶられて我に返った。
教室の中で机に突っ伏して寝ていたらしい。
「あっ……えっ?」
「気持ち良さそうに寝てたけれど、部活動なんじゃないの?」
自分を起こしたのは、ショートヘアーの快活そうな少女だった。制服のブラウスの前がはだけ、中に着ている紺色の物が見えた。
「あ……うん」
「それじゃ。お礼がしたいんだったら、今度瑞洋軒のアイスをおごってね」
「うん」
「返事したね? 約束だよ。忘れないでね!」
それだけ言うと彼女はブラウスを脱ぎながら教室を出ていった。下は紺色をベースにしたサイドが白いストライプの競泳用水着だった。
「水泳部なのかな?」
教室の中は自分一人だけだった。
しばしぼうっと宙を見つめて、ようやく悠司は状況を把握した。どうやら授業は終わったようだ。そして、今、彼は体の支配権を取り戻している。
だが彼は何をしていいか迷った。
なにしろ今、自分は女性の体に入っている居候のような存在なのだ。自分は本当は男で、なぜかまったく別人の女性になってしまった上に、体も自由にならないとなれば、どうすればいいのか戸惑うのも無理はない。
教室の匂いは、どこか化粧品の香料のような甘い香りが漂っている。それら化粧品や衣服が発する匂い、人が発する体臭などの生活臭が染み込んでいるようだった。知り合いの女子校マニアなら、この匂いを嗅ぐだけで感激に打ち震えただろう。
机の中をのぞいて見ると、きちんと揃えられたノートと教科書、ペンケースが入っている。プリントや授業に必要がないその他の物でごちゃごちゃだった悠司とは大違いだ。
いつ体が自由ではなくなるかと脅えつつ、とりあえず机の中の物を全て鞄の中に詰め込む。必要最小限の物だけなのか、鞄の半分にも満たない量だった。
そういえば部活動が、とかいう話だった。スポーツバッグの、まだ新しいテニスラケットといい、朝の先輩との会話といい、彼女がテニス部に属しているのは疑いようのない事実のようだ。
選択の余地は極めて小さい。
テニス部に行くか、行かないか。これしかない。
財布には5千円札が1枚と千円札が2枚しか入っていなかった。学校に来ているだけにしては持っている方だとは思うが、あんなスイートを貸し切るほどの家の娘とは思えない、嘆かわしいほどのつつましさだった。
それに、クレジットカードどころかキャッシュカードすら入っていなかった。もっとも、カードがあったところで暗証番号はわからないから、金は引き出せないのだが。
電車で悠司のアパートに帰るのはたやすいが、その先はどうすればいいのだろうか。あのアパートの住人とまた顔を合わせるのはできるだけ避けたかった。つまり、この選択肢は実質的に選べないということだ。
テニス部に行かないとすると、どうやって暇をつぶしたらいいのか。
東雲に電話しようにも、電話番号がわからない。何と彼女は、携帯電話も持っていなかった。探してみたが、電話番号を記すような手帳も見当たらない。
いや、放課後に車が学校に来るとは限らない。来るにしても、どこに、何時に迎えが来るのかも、悠司は知らないのだ。おまけに今日は土曜日。まだ昼飯も食べていない。
何を最初にするべきか……。
こうして悠司は動くに動けず、固まってしまった。
なおも悩み続けていると、体が浮くような感覚がした。体が勝手に動き、視界が思うようにならなくなった。また体の支配権を奪い取られてしまったようだ。
いい加減こんなことにも慣れてきた悠司は、そのまま見学することに決めた。たぶん部活動にでも行くのだろう。となれば更衣室に行くのは間違いない。
これはこれで楽しみだ。
亜美は鞄を開け、首を傾げながら内容物の位置を変えた。いちいち細かいやつだと悠司は思ったが、皮肉は通じないようだ。
鞄とロッカーにしまったスポーツバッグを持って下へと向かう。彼女の教室は二階だった。廊下ですれ違う教師と挨拶を交わしながら、校舎の一階から伸びる渡り廊下を歩いてゆく。
渡り廊下の先は新しい建物と、やや左手の方に少々古い建物が並び立っていた。とはいえ、古い方の建物でも、彼が住むアパートや行っている大学の校舎よりは新しい。築20年くらいだろうか。
亜美はその古い方の建物へと歩いていった。
そこは更衣室だった。
汗の匂いが部屋の中に漂っているが、空調は効いている。なんと更衣室なのに空調があるのだ。教室もクーラーが効いていたし、実にぜいたくな学校だ。
まるで下足箱か図書館の棚のように縦長のロッカーが立ち並び、通路に面した場所にクラブの名札がついている。中には長刀部や合気道部のようなものまであった。
やがてテニス部とある場所に行き着く。どうやらここのようだ。
「こんにちは、瀬野木さん」
「こんにちは」
三々五々と一年生達がやってきた。さすがに一年生は早い。
学年は制服の襟の色でわかる。一年はえんじ色、二年はスカイブルー、三年は黄色だ。来年三年生が卒業すれば、その次の一年生が黄色のラインを受け継ぐようになっている。その知識が、悠司にも流れ込んできた。
どうやら先輩達はまだ来ていないらしい。今日は土曜日で、クラブ活動は昼食を食べてからになるようだ。
「瀬野木さん、お昼はどうする?」
「食堂で食べようと思ってるの」
「じゃあ、御一緒しない?」
「よろこんで」
などと話しながら着替え始める。
視界に入ってくる女子高生の下着姿に、悠司の存在しない心臓が高鳴った。
亜美に比べると、まだ子供子供した印象を受けるが、顔立ちやスタイルはどれもA級と言えるだろう。育ちがいいのか、脱いだ制服を丁寧にハンガーにかけている。
ここでこのまま押し倒す事ができたらどんなにいいか。
まだ男を知らない体に、最初の刻印を刻み込みたい。
体の反応が無い分、妄想はどんどん膨らみ、過激になってゆく。
そんな悠司の妄想を感じたのか、全員が下着姿になった頃を見計らったかのように、亜美が口を開いた。
「皆に提案があるんだけど、いいかな?」
亜美を除いた1年生部員5人全員が、彼女の方を見た。
「今日は、ね」
悠司は我に返った。
また、顔がいつもの微笑みを形作る。
きた……。
ここにきてようやく悠司にも飲み込めてきた。
「テニスウェアの下は、何もはかないで練習するっていうのは、どうかしら?」
彼女が微笑むのは、エロティックな事件が起きる前触れなのだ。