38

 さて、龍鬼が旧家の人間であることは分かった心だが、
(どこの家なんだろう?)
 問題は、このことだ。
 例の『文句』を知っていることから、旧家のうちでも親密な間柄であり、それにこの屋敷のようすからみて、かなり裕福な家であることは確かに思われる。
(東堂? 西ノ宮? 二本木? それとも外山? 桝田? 呉? 瀬丸ではない、よね?)
 七つほどの家が、まっさきに思い浮かんだ。
 西ノ宮家、つまり環の家も旧家にふくまれている。
 田崎家も旧家にふくまれてはいるが、先に挙げた七家に比べると、失礼なはなしだが一段落ちるし、さきほどの龍鬼との会話からみても、違うことは間違いない。
 ちなみに瀬丸は母の実家だ。よってこれも多分ちがうはず。
 先ほどから心は『この町』という括りで考えているが、何もそれは本来の、行政の区画でいう町ではない。
 実際はもっと広い一帯であり、部分的には他県にふくまれて――つまり二つの県に跨っているので、地域という表現の方がより適切だろう。
 さきの七家から瀬丸をのぞいた六家のうち、東堂・西ノ宮・二本木の三家は距離的にも近いし、裕福さという点でも、頭ひとつ勝っている感じだ。
 心のみたところ、おそらく龍鬼はいまの心と同年代、15〜18歳といったところだろう。
 環に兄弟がいるという話は聞いていないし、西ノ宮家に龍鬼のような少年がいるという情報は、男女両方の心の記憶にないから、西ノ宮家ではなさそうだ。
(東堂か、二本木なのかな? でも)
 どちらの家にも、いまの心と同年代の子息はいなかったはずなのだが――もっともこれは、男だったときの記憶によればの話だ。
 そもそも男だったときの記憶を持ちだすならば、龍鬼のような少年は、旧家中には存在しない。
 龍鬼どころか環でさえも、男だったときには、
(いなかったはず、なんだよね……)
 ということになってしまうのだ。
(うーん……えーと、だから)
 これはもう、まったくもってお手上げだ。今のところ、心には判断がつかない。

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「心様、どうかなさいましたか?」
 からかっているのだろうか、龍鬼はあいかわらず畏まった態度で、心に話しかけてくる。
「いいえ、何でもありません。あの――」
「はい。なんでしょう?」
 跪いたままで、龍鬼は愛想良くこたえる。
「そういう態度は、やめていただきたいのです」
「それはできません。『御子』にたいして、失礼なことはいたしかねます」
 どうにもむずがゆいし、それについ先ほどまでは、あんなに親しげな態度だったというのに……
(からかってる? バカにされてる? ……ムカつく!!)
 龍鬼の慇懃な口調と態度を、止めさせたい。
「ならば、『御子』として命じます。必要以上に丁重な扱いは、やめてください」
「はい。承りました。いつも通りにお呼びすれば、それでよろしいですか?」
「そうしてください」
「わかりました。――心、となり、いいかな?」
 急に、龍鬼は親しげな口調に戻る。
(やっぱり、からかってたな!!)
「……どうぞ、ご自由に」
 ぷいっと視線をそらして、心は自分がいま不機嫌であることを態度で示す。
 本人はいたって真面目なつもりだが、その姿はとても子供っぽく、微笑ましいものに見える。
 龍鬼は立ち上がると、心のとなりに腰かけた。
 にこにこと嬉しげに微笑みながら、龍鬼は心をみつめている。
 ぱっと見た外見、とくに顔立ちにかんしていえば、龍鬼はかなりの男前――というか美少年だ。
 全体に女性的なつくりで、これはいわゆる日本的な美人顔というやつなのだろう、涼しげな切れ長の目、高く整った鼻筋、細くとがり気味の顎のラインが少しだけ神経質そうな印象を与えるものの、くっきりした濃いめの眉が少年らしさを漂わせている。
「…………!?」
 龍鬼の腕がのばされて、心の肩に廻された。やんわりと力をこめて、抱きしめてくる。
「やっ! やめ、やめてください」
 固くて柔らかい龍鬼の腕、そして胸板。
 鍛えあげられ、適度に絞られた、逞しい筋肉の――どこか懐かしい、『久しぶり』の感触。
(イヤだ。イヤだ、イヤだ。男に抱かれるなんて、イヤだ、イヤ……なのに)
 力が抜ける。さっきと同じだ。
 抜けるというよりも、力が入らない。抵抗できない。
「よしよし、こうするのは、本当に久しぶりだね。いつ以来かな」
 心を横抱きにかかえあげて膝の上に座らせると、龍鬼はまた先ほどのように、頭を撫ではじめる。
「やあ……やだ、いやだ。いやです、やめて、やめてよぉ」
 あっという間に、心はふにゃふにゃになって、大人しくさせられてしまう。
(…あ、あ……)
 気持ち良い、頭がぼうっとして、ふわふわする。
「……なでなで、もっと」
 とんでもない事を口走ってしまう。心は自覚していながら、これを止めることができなかった。
 男に抱かれているというのに、気持ち悪さを感じない。嫌悪感はまったくない。
 まるでなんだか、身体がこうされることを望んでいるみたいだ。
 しかし、たとえ身体が「嫌ではない」といっても、
(…イヤ……いやだぁ)
 こころは、イヤなのだ。否、そう思いたいのだ。
「いい子だね。心は、とってもいい子だ。可愛いよ」
 小さな子供をあやすように、龍鬼はしつこく『なでなで』してくる。
(ヤッパリ、環トイッショ、オンナジ、ヤサシイ……キモチイイ)
 女の子になってからこれまでで、触れ合って一番心地よかったのは、環だ。
 いまも環が一番なのは変わりない。ただ手を握り合うだけでも、彼女は深い安心を与えてくれる。
 龍鬼の『抱っこ』と『なでなで』は、その環との『触れ合い』に次いで気持ち良い。
 このことは、環と同様に龍鬼もまた、『心』にとって特別な存在である証なのかもしれない。
「……む、んぅ」
 龍鬼の胸にほほを寄せて、心はうっとりと目を細める。
(だめ、だめだ。だめだよ。たつきは、男じゃないか。男同士じゃないか! それに、なんだかちがう、ちがうよ。たつきは、環とちがう)
 龍鬼と会ってから、ずっと感じ続けている微妙な違和感が、こころを揺らめかせて警告してくる。
 さざ波のような違和感。
 なんと表現すればよいのか、環といっしょだとまぎれもなく、こころも身体も安心できるのに対して、龍鬼には安心『させられている』とでも言おうか、落ち着くのを『強いられている』ような感じだ。
 やわらかく『抱っこ』したまま、心を撫でていた龍鬼の手が、不意に止まる。
「怪我の具合はどうかな? 少しだけ、確かめてもいいかな?」
「へいき、へ…平気です、だから、あの……やめて」
 心はやっとのことで言葉を紡ぐが、抵抗まではできないでいる。
「大丈夫だよ、何もしないから、ね?」
 頬に口付けると、龍鬼はガウンの袖を捲り上げて、包帯につつまれた心の腕を露出させる。
 包帯をていねいに巻き取って、心の腕を注意深く見つめる。
「良かった。あまり酷い傷は、ないみたいだね。でも――」
「あ…ん、んん……やめて、やめて」
 肘のあたりに薄く拡がった擦り傷に、龍鬼は舌を這わす。
「可哀想に、こんなにたくさん傷ついて――痛くないかな? 可哀想に――」
 ぎゅうっと抱きしめて、唇を重ねてくる。口中に舌を差し入れて、心の小さな舌を絡めとってしまう。
 舌で舌を包みこみ、優しく愛撫しながら、心の唾液を飲み下していく。
(いや、いや、いやいや……やだ、やだよぉ)
 頭の中にあった違和感が、ほどけて拡がっていくような感覚を、心は感じている。
 長いキスが終わるころには、頭の中全体に、ぼんやりと霞がかかったようになってしまった。
「――次は、足の方の具合を、確かめさせてもらうね」
 そういって龍鬼は、心をベッドに横たえさせると、ガウンの裾に手をかけた。
「ヤッ! だめ、だめ! やめて、だめです」
 すっかり子供に『戻って』しまったうえ、頭がぼんやりしてろくに働かない状態になっても、心は懸命に男であろうと、身を守ろうとする。じたばたともがいて、ほとんど意味のない抵抗をはじめる。
「うーん、困ったねえ。そんなに、嫌なのかな?」
 しかし龍鬼には、多少の効果があったらしい。わずかに戸惑っている。
 どうやら彼は、心を困らせたり、悲しませたりするようなことは、本気でやりたくないらしい。
 よほどに心を大切に思っているのか、それとも単なる気まぐれなのか─―。
「いやです。やめてください。平気です……」
 心は必死で身体を起こし、手足を縮めて龍鬼から逃れようとする。
「そんなに嫌がられたら、僕も嫌だよ。心を困らせたりなんて、したくないよ――」
「!?」
 何を思ってか、龍鬼はみずからの人差指の先端ちかくを噛み破った。
 真っ赤な血が一瞬だけ玉のように膨らみ、それからつうっと流れていく。
 その指先で、口紅でもさすように心の唇をなぞる。 
「な!! ……う?」
 口を開いた瞬間、血が流れ込み、舌先に触れる。
 心の口中に広がったのは、むろん血の――生臭く、鉄臭い味。
 しかし同時に、
(…あま、甘い?)
 フルーツのようにさわやかな甘い味がする――かと思えば、ミルクチョコレートのような味へ、さらにエスプレッソのようなほろ苦い味へと、それは少しづつ、しかも刻一刻と変化し続けて、まったく捉えどころがない。ただ一つ確実にいえるのは、それは間違いなく血の味わいでありながら、同時に心にとってはとても美味しい、大好きなものの味にも感じられるということだけ。
「どうかな? 美味しい?」
「……ん」
 うっとりとした表情で、心はうなずいてしまう。
「――さあ」
 差し出された龍鬼の指に、心は引き寄せられていく。
「いくらでも、好きなだけ舐めていいんだよ」
 心はちろちろと舌を這わせて、流れていく龍鬼の血を舐める。
 一滴一滴が、身体の奥にしみこんでくるような感じだ。
 舐めていくにつれて、胸やお腹が中から温まってくるような気もする。
(おいし……もっと、もっと…)
 心は生まれてこのかた、一度も味わったことのない渇きを覚えていた。
「…おいち」
 そのうち、流れ出した分を舐めるだけでは物足りなくなったのか、龍鬼の指に直接しゃぶりついて、ちゅうちゅうと啜りだす。
 血に気を取られているあいだに、龍鬼はすみずみまで入念に、心の身体を調べていく。
 左右の二の腕に、少し重い打撲傷がある――これは昨日、中年男の振るった腕をガードした際にできた傷だが、もちろん龍鬼が知るわけもない――これ以外は、ほとんどが軽い擦り傷だ。
 擦り傷もほとんど全て、中年男に『襲われた』最中に擦りむいてできたものだが、なかには龍鬼との
『情事』のときに作られたものもあるだろう。それを思うと、龍鬼のこころは痛んだ。
「ごめん。痛かっただろうね、きっと」
 龍鬼は頬をすりよせ、心の首筋に口付けをする。
 血を味わうことにすっかり夢中になっている心は、抵抗もせず、ただくすぐったそうに顎をもちあげて、軽く身をよじらせるだけだ。
「もっと美味しいのを、あとであげるから、少しだけ我慢しておくれ」
 龍鬼はそう言うと、心の口から指を引き抜いた。ちゅぴっと音がして、唾液が糸をひく。
「いやぁ…もっと、もっとぉ」
 心の視線は、指先に釘付けだ。瞳をうるませて、龍鬼の左手に取り付こうとする。
「ごめんごめん。大丈夫だから、大丈夫だから、ね? 美味しいのをすぐにあげるから、たくさんあげるから、ほんの少しだけ待ってくれるかな?」
 心の頭を撫でながら、龍鬼は親指と人差指をかるく揉むように擦りあわせる――と、血が止まった。
 それどころか傷跡すら残ってはいない。
 あれだけ血が流れた、かなりの深さの傷だったというのに、完全に消えている。
「もっと、もっと、はやく、ください……はやく」
 心は目の前で起こったことの異常さに全く気がつかず、龍鬼の首筋に手をまわして揺さぶり、『おねだり』する。
「片手だと、怪我の具合をみるのが難しいから――すぐに終わるから、ね?」
「ほんと? ほんとうですか? すぐに、おわる?」
「うん、本当だよ。だから、いい子にしていておくれ」
「はい」
 何の疑いも抱かぬ心の態度に、龍鬼は激しく愛しさを掻き立てられた。
 無言で背中をさすってやりながら、唇を重ねる。
「……ん、んん」
 心は少し驚いたが、目を閉じて大人しく身をまかせた。
 龍鬼の舌が侵入してきて、口のなかをかき回し、心の舌にくちゅくちゅと絡み、包み込んでくる。
 生温かくて、不思議な感じで、ちょっとだけ気持ちが良い――と、心は思った。
 自然と唾液が溢れてきて、どんどん飲み込まないと口からこぼれ出してしまいそうだ。
 それは龍鬼も同じらしい。彼の喉が動き、唾液を飲み込んでいることが感じられる。
 とつぜん龍鬼が顔を傾けるようにして、彼の口中から唾液が注ぎこまれてきた。
 心の口のなかで、二人の唾液が混ざり合う。
 ――と、
(…あまい、おいしい……おいし、もっと、おいし)
 さきほど血に感じたのと同じような、『美味しい味』がする。
 唾液自体の味が、血液に比べるとソフトなためなのだろうか、さきほど血に感じたものよりも、ずっとずっと強くはっきりと、『美味しい味』を感じる。
 いままで龍鬼と、いや誰とキスをしても、こんな『味』を感じたことなどなかったというのに――。
 こういう『味』が存在していることを、心が気付いて――いや、『気付かされた』からなのだろうか、いちど『認識』してしまったからには、その『認識』に引っぱられてしまうようだ。
 龍鬼の血と唾液は、心にとって『美味しい』ものになってしまったらしい。
「ん…ん、んん、んぅん」
 心は龍鬼の首にまわした腕に力を籠め、彼の口中に舌を乱暴に侵入させると、激しくかき回して、分泌された唾液を夢中で啜りだす。
 心が離れようとしないので、龍鬼はそのまま心のお尻をまさぐって、撫で回しはじめる。
「――んぁ、いやぁ!」
 さすがにこれは嫌だったとみえて、心は龍鬼から離れた。
「美味しかった?」
「あ、あ……はい」
 にっこり微笑んで訊ねてくる龍鬼に、抗議することを忘れ、素直にこたえてしまう心。
「それじゃあ、もうちょっとだけ我慢してくれるね? あとでたくさんあげる――もっと美味しいのも、ね」
「…………いまの、よりも?」
「うん、そうだよ。いまのより――キスよりも、血よりも、もっともっと、ずっと美味しいのを、いくらでも好きなだけあげるからね」
「はい。あの、えーと、はやく、ほしいです」
(もっと、もっとおいしいの、たくさん……)
 こころが小さな子供に『戻って』いる心は、『美味しい味』の誘惑に勝つことなどできない。
 考えてみれば、今日はまだ起きてからミルクしか口にしていない。
 だから心はいま、とてもとてもお腹が空いている。
 お腹が空いていて、しかも何だか、いつもと違う感じで――お腹が空いて、身体が『渇く』感じがする。
 ふつうとは違う、『べつのお腹』が空いているような気がするのだ。

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