36

「…………」
(どこ?)
 頭が、いまいちすっきりしない。心は横になったまま、辺りを見回した。
 ふつうのキングサイズよりさらに大きい、天蓋つきの巨大なベッドのうえに、清潔な白いシーツとこれまた白いフワフワの綿毛布に包まれて、柔らかな枕に半分うずもれるように寝ている。
 空調が万全に施されているのだろう、暑くも寒くもなく、すごし易い室温だ。
 天蓋から下ろされたレースのカーテンから、向こう側が、部屋の中がかすかに透けてみえる。
(ここ……この感じ)
 どことなく、この部屋を見たことがあるような気がするのだが、よくは思い出せない。
 この部屋だけで何十畳あるのだろうか、出入り口とおぼしきドアまで、かなりの距離がある。
 ドアの辺りに、人影が二つ。
 心が身体をおこすと、
「お目覚めでございますか? 心お嬢様」
 あちらも心に気付いたようだ。
(お嬢様って、ボクのことかな?)
「……はい」
 いまの心は完全に、本来の彼に『帰って』いるわけではない。
 少々『戻って』いる状態だ。ちょうど、小学校の高学年くらいだろうか。
 むろん本人は、あいかわらず男でいるつもり――いつも通りの自分でいるつもりなのだ。
「すぐに、お知らせを――急いで」
「はい」
 シルエットと声から判断すると、双方とも女性らしい。
 ドア付近にいた二人のうち、年長者らしきほうが、もう一人に指示を出している。
 指示を受けたほうは、すばやく部屋から出ていった。

「もうしばらくで、主がまいります――よろしゅうございますか?」
 部屋に残ったほうの女性が、ベッドに近づいてきた。
 どうやら、ベッドのまわりのカーテンを開けてよいか、訊ねているようだ。
 ここで心は、いまの自分の格好に思い至った。
 薄手の白いガウンのみを羽織っており、下着は身に着けていない。両腕に、包帯や絆創膏で治療したあとがある。それだけでなく、全身いたるところに治療は施されているらしい。
 寝乱れた胸元をなおし、髪にも気を配る。それも、ごく自然に。
 身だしなみを整えるのに、男も女も関係ない。人として、最低限度のマナーというものだ。そういう面において黒姫家の、母の躾は厳しかったため、心は男だった時からきちんとしていた。
 とくに今は、幼く『戻って』いることも手伝って、母の教え通り、素直に行動している。
 しかし、そのような自分の姿が、まわりからすれば『女の子らしく、微笑ましい』という風に映ることにまでは、まったく気が及んでいない。
「どうぞ」
「失礼いたします」
 カーテンを開けたのは、優しげな中年の女性だった。
 映画にでも出てきそうな時代がかった衣服を身につけており、いかにも、「ベテランの使用人です」と言わんばかりだ。なんだか、
(修道服みたいにも、みえるかな?)
 などと心は思った。
「お嬢様、ご気分はいかがでございましょうか? お具合のおもわしくないところは、ございませんでしょうか?」
 にっこり微笑みながら、莫迦丁寧に訊ねてくる。
 こそばゆい――が、ここでも『戻って』いることが幸いして、ごく自然に対応する。
 今でこそ一人もいないが、祖父の生前までは、黒姫家でも住み込みの使用人を数名やとっていたから、『扱われ方』のようなものはいちおう心得ている。
「ありがとうございます。大丈夫です。あの、ここはいったいどちらの――」
「もうしわけございません。たいへん失礼ではございますが、そのようなご質問にお答えすることは、主から禁じられております。どうか、ご容赦ください」
 みなまで言わさず、すっぱりと断られてしまった。
「……そうですか。ではせめて、あなたのお名前を教えていただけますか?」
「これは、たいへん失礼いたしました。吉野と申します。心お嬢様の、身の回りのお世話を申し上げるようにと、主より命じられております」
{やはり、本当だったのね。なんて、おいたわしい……}
 彼女は一歩下がって、深々と頭を下げる。
「吉野さん――ですか。こちらこそ、お世話になります。それでは、さっそく一つお願いがあります」
「はい。なんなりと、お申しつけくださいませ」
 心は、まっすぐに吉野の目を見ながら、
「お嬢様と呼ぶのは、やめていただきたいのです。ボクのことは、ご存知でしたね?」
「はい、存じております。心様とお呼び申し上げて、よろしゅうございますでしょうか?」
「……」
(様は、いやだな)
 と思ったが、彼女の態度からみて、さん付けなどでは呼んでくれまい。
「はい、よろしくお願いします」
 にっこりと、心は微笑んでみせた。
 その笑顔のまぶしさに、吉野は見惚れてしまう。
「どうかしましたか?」
「は、はい、いえ――失礼いたしました。心様、なにかご所望はございますでしょうか?」
 心はいっしゅん考えて、
「それでは、ミルクをお願いできますか?」
「はい、ただいまお持ちいたします」
 いつの間にか、心と吉野が会話しているあいだに、出入り口のところに二人の使用人が待機していた。
 その若い二人の使用人が身につけている衣服は、吉野のものとは異なっている。まごうことなき、ほんもののメイド服というやつだ。
 吉野は二人のうちの片方に、心のミルクを持ってくるよう命じて、自分は心の側に控えている。
 どうやら彼女は、はじめに心が見て取ったようにベテランで、使用人たちの上役にあたるらしかった。

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「吉野さんは、こちらのお屋敷にはずいぶん長く、おつとめなさっておいでのようですね?」
(使用人をまとめる立場。それに、ボクの監視までさせて――かなり信頼されているらしいね)
 少しでも情報が欲しい心は、探りを入れるための取っ掛かりとして、吉田に話しかける。

「はい、二十年ほどになります。いまは当屋敷の、使用人頭を務めております」
 これくらいの、世間話レベルのことであれば問題あるまいと判断して、吉田は正直に答えながら、
{この方は、『上』のお方だわ……記憶なんて関係なしに、以前とまるでお変わりない}
 確信のようなものを、得ていた。

 もちろん、あの黒姫家のお嬢様だ。特別であることは主人から聞かされているし、吉野とて、この町でずっと暮らしてきたのだから、どれほどの重要人物であるのかは重々承知していた。
 実のところをいえば、この少女とは初対面ではない。過去に何度も、最重要の客人として、もてなしてきたことがあるのだ。だから、彼女が受けている教育や躾の上質さ、その頭の良さなど、十分に分かっていたつもりだ。
 ここで一つ、大きな問題があった。主からも事前に聞かされていたことだが、彼女は記憶を失っているらしい。この屋敷のことを忘れてしまっていたことからみても、間違いないようだ。
 そんな状態にありながら、この少女の優秀さにも、魅力にも、いささかの変化も見られなかった。
 現に二・三言かわしただけで、吉田の立場や人柄をほぼ把握してみせた。さきほどからの質問も、確実に答えてもらえることを見越して選んでいるのだろう、頭が良いことは相変わらずで、疑いようもない。
 しかしながら、それらは瑣末なことでしかない。
 目の前にいる少女は、黒姫家のお嬢様だからこのように育ったのではなく、この少女だからこそ黒姫家に生まれたのだと、いっそのことそう考えた方が自然に感じるほど『分からせて』くれている。
 この少女自身が、本質的に『上に立つ』人間だ、ということを――。

 上に立つもの、人を支配する・使う側に立つものには、どうしても必要とされる能力がある。
 それは支配する対象・相手を『理解』する能力だ。これなくして、相手をうまく働かせることは難しい。
 不可能ではないにしても、この能力の有る無しで、効率に決定的な差が生じてしまう。
 この能力には別に、「コレだ」という典型があるわけではない。さまざまな要因が複合して現れるものでもあるし、どういう風に成立しているのかなぞ、はっきりいって関係がない。
 ただ、有れば良いのだ。
 さらにもう一つ、これが加わればより好ましいとされる能力がある。
 それは『理解』していることを、その相手に『知らせて』やることだ。

 “あなたのことは『理解』していますよ。だから存分におやりなさい”と『知らせて、分からせて』くれることが、その下に仕えて働く者にとってどれほど勇気づけられ、やる気を与えてくれるものか簡単に想像できるだろう。与えられた圧倒的な安心感と信頼感は、古臭い表現だが、そのまま忠誠心へと結びついてゆく。
 それは薄っぺらな言葉でできるようなものではないし、これ見よがしな押し付けがましい態度で示せるような簡単なものでもない。できる者にはできるが、できない者には決して真似できない、『理解』することそれ自体より、はるかに難しいことだ。
 この少女――心ほど、この二つをバランスよく持ち合わせ、完全に、そしておそらくはまるで無意識に使いこなしている人物に、吉田はかつて出会ったことがない。
 無意識――そう、本人には全く『そんなこと』をしているつもりは無いはずだ。
 ごく表面的な見方をすれば、『知らせて』やる能力とは『考えていることを読まれてしまう無防備さ』とも受け取れるだろう。それでは「本音と建前の使い分けができないのでは?」と思うかもしないが、そんなものは杞憂にすぎない。
 ようするに支配する相手に対し、適切に情報を与えてやって、せいぜい張り切って働くように仕向けている、その程度のことなのだと考えればいい。
{まさに下賤の者の、浅はかな誤解といったところかしら? 心様にとっては我々なんて、欺く必要すらないはず}
 吉田にしても、長年、使用人として自らの仕事に誇りを持ち、真摯に努めてきたからこそ、ここまで心のことを読みとれたのだという自負がある。
{亡くなられた奥様に、本当によく似ていらっしゃる}
 少女――心の母親も、二つの能力をバランスよく持っていた人物だった。心をのぞいては、心の母がこれまで吉野の出会ったなかで、一番の『支配者』だった。
 この『理解』云々についても、心の母親から聞かされたことだった。いや、聞かされたというよりも、話相手を務めていた間に、自然と吉野のなかにかたち作られるよう仕向けられた、といった方が正確だ。
 心と、心の母。この二人には大きな違いがある。それは自覚的に能力を使っているか、そうではないかということだ。心の母は自分の能力を受け入れて、自らそれを磨きあげていたが、心は自分の能力に対してまるで無自覚――それどころか、人を支配することを嫌がっている印象すらある。
 そういう点ではむしろ、
{旦那様に、似ていらっしゃるのかしら?}
 心の父親のほうに、似ている感じだ。

 心の横顔に見惚れつつ、吉田はさらに考える。
 もしも家族や友人といった立場で、心に関わったとしたらきっと、『かまってあげたい』とか『願いを聞き届けてあげたい』とか『放っておけない』だとか、そんな風に感じたに違いない。
 下手をすれば『見透かされている』などと感じて、敵意を抱くことすらあったかもしれない。
 もっとも心は外見も、芸術と呼べるほど整いすぎた美しい少女だ。たとえ同性であっても、あまりに現実離れした美しさには、ただ見惚れてしまうしかない。よほどの馬鹿か、身の程知らずでもなければ、敵意なぞ持ちようがないだろう。
 だが或いは、目の前の人物が男だったとしたら? 事態は少々複雑になるのかも……。
{何を考えてるのかしら……私ったら}
 大袈裟に、バカバカしいことを考えすぎた。そう思いつつ、ついでとばかりに『妄想』を飛躍させる。
 この目の前にいる少女の在りようは、もはや上に立って『支配する』などというレヴェルを超えているのではないか? 『奉られる』というところにまで、届いている気がする。
 自分に仕える、もしくは自分のために働く相手に対して、『喜び』を与える能力をもつ存在――それは、
{人では、ないみたい。まるで……}

************************************************

「ありがとうございます」
 届いたミルクを差し出すと、優雅な所作で一礼し、心は受け取った。
「――おいしい」
 ミルクに軽く口をつけて、心はほうっと溜息をつく。
 ほんのりと、頬が桜色に染まっている。なんとも可愛らしい。
「お気に召して、いただけましたでしょうか?」
「はい」
 吉野に聞いた話では、いまは土曜日の昼過ぎだという。
(昨日の夜からさっきまで、ずっと寝てたのか)
 時間的にはずいぶん長く寝ていたことになるが、そのわりには気だるいというか、疲れが残っている。
 ――と、とつぜん音もなく扉が開く。
 現れたのは、背の高い少年だ。
「若様! おやめください!」
 扉のあたりで控えていた二人が、少年を引きとめようとするも、軽く無視されてしまう。少年のあとについて現れた、大柄な男たちによって、彼女らは扉の外へと引きだされてしまった。
 吉野が、少年のまえに立ち塞がる。
「若様、このようにご無礼なふるまいをなさっては、いけません」
 いかに自分の屋敷であろうが、
{レディの部屋へノックも無しに入りこむなんて!!}
 非礼にもほどがある。たとえ自分が仕えるべき主人の一人であったとしても、吉野はこれを咎めずにはいられなかった。ましてや吉野にとって心は、『本来の主人』の、さらに『主人』にあたるのだ。尚更に、この非礼を許すわけにはいかない。
 しかし、少年――龍鬼は、そんな吉田のようすを意に介すそぶりすら見せず、クイッと顎をしゃくって、『出て行け』というジェスチュアをしたのみだ。声すら使わない。
 従わぬわけにも、いかない。龍鬼はこの屋敷の『本来の主人』ではないが、実質的な最高実力者なのだ。
 しかし吉野は、心をかばうように、龍鬼のまえに留まり続ける。主人から命じられた仕事を放棄することなど、信頼を裏切ることなど彼女にはできない。彼女の、仕事にたいする誇りがそれを許さなかった。
{心様をお守り申し上げることも、仕事のうち}
 なのだから。
 身体をこわばらせながらも、吉野は龍鬼の瞳を見つめ返した。
 龍鬼はただ傲然と、彼女を見下ろしている。なんの感情も込められていない、凍りついた瞳で。
 にらみ合いが続くうち、吉野の額に汗がにじみ始めた。
「――吉野さん、ボクなら大丈夫です。どうか心配なさらないでください」
 沈黙を破ったのは、心の一言だった。
「心様……」
 振り向いた吉野の表情は、憔悴しきっていた。無理もあるまい。龍鬼の放つ重圧に耐え切れるものなど、たとえ男であったとしてもそうはいないはずだ。
「大丈夫、大丈夫ですから、ね?」
 にこにこと、心は微笑んでみせる。がくりと吉野の身体から力がぬけるが、それも一瞬のこと、すぐさまぴしりと姿勢を正して、「失礼いたします」
 声と表情にほんの少しだけ、「渋々……」といった感じを含ませて、吉田は部屋から出ていった。
 室内に残ったのは、心と龍鬼のみ。

「良かった。気がついて――具合はどうかな? 心配したよ。あれからずっと、目を覚まさなかったから」
 優しい声、気遣わしげな視線。
 龍鬼の姿を確認してから、心は顔をふせて、目を合わせないようにしている。
「助けていただいたことは、感謝しています。けれど――」
「心? どうしたの?」
 よそよそしい丁寧語に、違和感をもったらしい。龍鬼は心の手に、自らのそれを重ねようとする。
 さっと胸元に抱えるように、心は両手を引っ込めた。
「触らないで、ください」
 丁寧語を用いているのは、ようするに牽制のためだ。龍鬼には、こちらに危害をくわえるようなつもりが無いらしい事は分かっているのだが、だからといって油断はできない。
 彼には色々と――されたし、いったい何者なのかも、いまだに心はまったく分からないのだ。
(あんなこと、イタズラ…? 悪戯された…なんて……どうして、あんな)
 完全ではないが、かなりの部分を、心は覚えている。
 龍鬼にされたことも、そして自分がどのような反応をかえしたのかも。
 彼に触れられることを、自分は嫌がるどころか、
(求めて、いた? ちがう……ちがう! 知りたかった、知りたかっただけだよ!!)
 ではいったい、
(ボクは、なにを、知りたかったんだ? あれじゃ、あんなのじゃ……)
 まるで――犯されることを、望んでいたようなものだ。
 小さな胸をかばうように、心は自分の身体を抱きしめる。
(……そう、いえば)
 龍鬼は、自分――女の子の『心』のことを、知っているらしい。それに昨日、何度も何度もくりかえし、耳元で囁かれた「愛している」という言葉……。思い出すたびに、こころがざわつく。
(へんな、感じ)
 生理的な嫌悪とはあきらかに異なる、水面にさざ波が立つような、かすかな精神の揺らぎ。
 何かはっきりとした感じがするわけでもないし、龍鬼のことを『好き』でも『嫌い』なわけでもない。
 ただ「安心するな」・「気を緩めるな」と、呼びかけられているような、そんな気がしてくる。
(とにかく、たつきは要注意だ。しっかり、しなくちゃ)
 こころの中からの呼びかけのみではなく、龍鬼にたいする警戒には、はっきりした根拠がある。
 まず第一に何よりも、龍鬼は『危険』な人間だ。
 何故か? 心は見たのだ、はっきりと。
 龍鬼が吉田に一瞥をくれたとき、そのあとさらに見下ろしつづけた瞳は、あの中年男を『始末』したときと同じ――感情というものがさっぱり読みとれない、表情の無い、凍りついた瞳だった。
 そんな瞳が心を見た途端、雪や氷が溶けるように、優しげなものに変化した。
 龍鬼にとって『人間』は心だけだと、目に映る他のすべてのものは、生物だろうが無生物だろうが、心いがいは単なる『動く物』に過ぎないのだと、その瞳が何よりも雄弁に物語っていた。
 人を人と思ず、扱いもしない人間。そして彼は力――この屋敷の主人であることから十分に想像できる金や権力、さらに、これは心の見立てに過ぎないが、優秀な肉体的能力――を持ち合わせている。
 こういう人間は危険だ。扱いに注意しなくてはいけない。
 さらに自分は、その龍鬼にとって特別な人間らしい。下手な反応をすれば、まわりに被害が及んでしまいかねない。さきほどの吉野にしてからが、そうであったように、だ。
「一人にして、ごめんね。少し、用事があったものだから――」
「…………」
 ちらりと龍鬼の方を見ると、しっかり目が合ってしまった。心はあわてて視線をそらす。
 はじめて会ったときは薄暗い場所だったせいもあって、まともに見ることが出来なかったが、優しげに微笑んでいる龍鬼は、少しだけ死んだ父に似ている気がする。心が、一番『苦手』とする――無論それは、言葉どおりの意味そのままではない――タイプ。
(ん……?)
 自分の頬が熱くなっていることに、心は気がついた。
「痛いところはないかな?」
 いつの間にか引き寄せた椅子に腰掛けて、龍鬼はあいかわらず微笑みながら、心を見つめている。
「大丈夫です!」
「そう――よかった」
 強い口調でこたえても、龍鬼はまるで気にする様子もない。むしろ、心が元気になったことを喜んでいるようだ。
 愚かしいほど真っ直ぐに、龍鬼は『心』に――自分に好意をよせてくる。まさに『お子様』状態にある、いまの心にもはっきりと分かるくらいに、言葉にせずとも伝わってくるほどに強い、つよい想い。
「あの」
「ん?」
「…………」
 また目が合ってしまった。あわてて顔を伏せる。龍鬼がクスリと笑った。
 顔が、そして全身が火照っていくのが、今度こそはっきり分かる。
(う、あ……どうして? どうして?)
 どうしてだろうか? 胸のあたりが苦しい。息が詰まりそうだ。
 自分は男だ、男なのだ。それに自分には、環がいる。たとえ環がいなくとも、男からの求愛など、
(イヤだよ。そんなの、ボクはホモじゃない!!)
 当然ながらお断りだ。それに、
(ボク、たつきは……たつき、たつき……やっぱり、キライだ)
 本当は自分でも、はっきり『キライ』と断定できるわけではないのだが、とにかく龍鬼に対して、よく分からないモヤモヤした、不安定な――ゆらゆらして、スッキリしない。
 このモヤモヤには、こころ当りがあるような、
(……そうか、分かった)
 似ている――清十郎との、初めての試合に負けたときと、同じような感じがする。
(くやしい、『悔しい』んだ)
 清十郎に負けたときも、その次の彼との試合に勝つまで、悔しくて堪らなかった。そして悔しさがあったとはいえ、そのあいだ清十郎のことを『キライ』になっていたわけでもなかったから、ずっといわく名状し難い、モヤモヤ・イライラに悩まされた。
(きっと、そうだ。間違いない――たつきに『負けた』からなんだ)
 少なくともいまの心にとっては、龍鬼に対するこの感じも、『負けた悔しさ』で間違いないように思えるのだ。
 この『負けた悔しさ』というやつは、ふたたび同じ相手に挑んで勝つ以外、解消しようがない。
 だから、
(勝たなきゃ――たつきに、勝つんだ。けど……)
 いったい、『何で』勝てば良いのだろうか? いまいち分からない。
 何かの勝負で、たとえば格闘技の試合で負けた場合ならば、勝つまで挑めばいいだけの話なのだが、今回は別に、龍鬼と勝負したわけでもない。勝負がうんぬんどころか、龍鬼には、あの中年男から助けてもらったのだ。たとえその後でイタズラもされたとはいえ、助けてもらった事実に変わりはない。
(……むぅ?)
 自分が『負けた』のは、直接にはあの中年男だ。だがあの男は目の前で、龍鬼によって『始末』されてしまった。おそらく、もうこの世には存在しない。再戦すべき本来の相手は、目の前にいる龍鬼によって倒され、そのうえでイタズラまでされた……。
 心の脳内に、
(あれがトーナメントだって考えれば、あの中年サラリーマンに負けて、そのあと敗者復活して、それでたつきに……たつきに『負けた=イタズラされた』から――決定、たつきはボクの敵(あいて)だ!!)
 どこをどうすれば、そんな発想が出てくるのか、無茶な理屈がヒネリだされた。
 いかに今の心が、幼く『戻って』いるとはいえ、この理屈があまりにも無茶なことはくらいは分かっている。
 分かってはいるのだが、龍鬼にたいして何か判断を下さないことには、気持ちの整理がつけられないのだ。
 結局は、イタズラされたことが気に入らないのに過ぎないのだが、
(助けてもらったから、チャラにするのが男ってものだよ、ね? なんか、ほら…逆恨み…みたいだし)
 心としては、そのことを理由にするのは避けたいのだ。
 妙なところにこだわるのは、子供っぽい『男らしさ』の追求のためだけではない。
 イタズラされたことを理由にしてしまうと、イタズラされたことを事実として認めなくてはならない。
 つまり、自分から『求めた』ことも認めなくてはならないのだ。
 絶対に認められるわけがない。もう思い出したくもない。だから別の理由を、無理矢理にでも決め付ける必要があった。とにかく『勝負』に『負けた』ことに結びつけてしまえば、
(もう一度やって、たつきに勝つ。勝てれば、それでいい)
 そちらに集中すれば、イタズラされたことは忘れてしまえる――忘れようとしているのだ。
 さて、龍鬼を敵と考えて『復讐』するには、すなわち勝負して勝つには、幾つも問題がある。
 第一に、「勝負しろ」と言ったところで龍鬼は相手にしてくれまい。第二に、龍鬼は強い。例の中年男を
『始末』したときの手並み、普段の身のこなし等をみればおのずと判断できる――心の見立てが正しければ、もし勝負してもらえたとて、いまの心が勝てる相手ではないことは、ほぼ間違いあるまい。
 だからといって、龍鬼にたいするモヤモヤを『負けた』からだと思い込んで――正確には、思い込もうとしている心には、このまま放って置くことなど出来ない。
 もともと心は、頑固で負けず嫌いな性分なのだ。そうでなければ、これほどまでに『勝負』にこだわる訳がない。しかも幼く『戻って』いるせいで、余計にそれが強くなっている。
 心は龍鬼のことを、『危険』で『厄介な』人物だと考えているが、『厄介さ』という点では、心のほうがよっぽど性質が悪いといえるだろう。
 なにせ、とんでもなく負けず嫌いなものだから、イタズラされたことを認めるのが嫌で、かといってそれを見過ごして、なかったことにもできない――どうにかして仕返ししたいくせに、仕返しだとは思いたくない、ときている。
 まったくもって始末が悪い。
(まてよ、まてまて。なにも、たつきと殴り合いすることもない……よね?)
 何かほかのことでも、勝負ができればよいのではないか?
 龍鬼と互角に遣り合えそうなものを、心は考え始める。やるからには、どうしても勝ちたいらしい。
 いまの自分に、この身体でも以前と変わらずできそうなことといったら、
(お茶? お花? それとも、料理かな?)
 幼い頃、母と祖父から仕込まれた、茶道と華道はどうだろうかと考えて、
(たつきができるかどうか、分かんないや。でも、たぶん出来そう……)
 しかし、
(ボクの得意なことで「勝負しろ」っていうのは、なんか卑怯だよ。男らしくない!!)
 自分の土俵にひっぱり込むような真似は、したくないらしい。

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