窓の外を見慣れた風景が流れていく。やわらかな日差しが心地よい。
瞬く間に2週間が過ぎた。あの日から始まった、心の女の子としての日々は概ね平穏なものだ。
もっともそれは、何かことある毎に『戻って』しまう心には、事態の把握ができないことを、ただ単に、『心地良かったこと』として認識してきた結果に過ぎない。
1人きりでの外出、入浴や自室での就寝を、怪我や体調など何かと理由をつけて禁じられてきた。
恋や愛と一緒に入浴したり、同じベッドで寝るのを強要されることは、さすがに勘弁してもらいたかったが……結局いままでのところ、逆らうことはできていない。
最近では、逆らう気も起きなくなってきている。どうでもいい、と思ってしまう。
本人の預かり知らないところで、こっそり身体を調べられたり、悪戯されたりしているのは、心が認識できない以上、無いも同じことなのだ――
いま心は、ある人物と会うため、待ち合わせ場所にむかう電車内で、見るとは無しに外の風景を眺めている。
女の子になってから、初めての1人での外出。
恋を説得するのが大変だった。両足の打撲はすっかり良くなって、もう包帯も取れている。
それを理由になんとか押し切り、1人での外出を納得させた。
不安定な天秤のように、心のこころは行ったり来たりを繰り返しているが、そのことを自覚できるわけではないのだから、尚更に、いまの心は危険な状態だと言える。
奇跡的に今朝は、ほとんど本来の彼に『帰って』いる。
これから心が会いに行く人物は、彼の人生において最も信用するに足る、第一の親友だ。
同時にその男は、最も激烈な闘いを繰り広げてきたライバルでもある。
男の名は、嶋岡 清十郎
待ち合わせに少し遅れてしまった心は、急いでその場に向かう。恋を説得するのに時間をとられ、その後にも着替えやら、色々と時間をとられたせいだ。
それに何だか、さっきからジロジロ見られている気がする。居心地が悪い。
(……面倒だよなぁ――いた)
清十郎はどこにいても目立つ、鍛え上げた193cmの長身では、目立つなというのが無理なのだ。
とりあえず声をかけてみる。
「やあ、清十郎――ボクだ、心だよ」
清十郎は一瞬、何事かと考えるも、すぐに苦笑する。
「すまんが、悪いが冗談はやめてくれ。お嬢さん、誰に頼まれた? 君に頼んだヤツに、こころ当りはあるんだが……あの野郎」
「…………」
(やっぱり、だめかぁ)
もしかしたら、彼なら分かってくれるかも知れない。そんな考えが心にはあったのだが、やはり駄目なようだ。そのために、男の時と同じような服装で来たというのに――
今日の心はレザーパンツに白いシンプルなシャツ、ワークブーツといういでたちだ。
(これなら……どうだ?)
するすると、ごく自然な感じで間合いをつめる。笑顔を浮かべつつ、心の左足が跳ね上がる。
上段前蹴り。心の得意な技の一つだ。ブーツのつま先がピタリと、清十郎の水月に当てられる。
二人の身長差のせいで、顔にはとうてい届かない。だが、
「――マジかよ……お前、本当に? 心……なのか?」
「ああ、そうだよ。久しぶりだね」
「いったい、どういう訳だ? 説明してくれ」
「頼まれなくても、してあげるさ。とりあえず、クールベにでも行こう。ここじゃ、ね」
「そうだな」
清十郎は辺りを見回す。どう考えたってワケありだ。路上でできる話ではないだろう。
喫茶〈クールベ〉、心と清十郎の馴染みの店だ。二人がつるむようになった当初から、この店にはよく来ている。常連というわけだ。
「おや? 珍しいですね、嶋岡さんが透子さん以外の女性と一緒なんて」
立派な髭が目立つマスターが、注文を取りにくる。
「ひょっとして……浮気ですか? 関心しませんねぇ――考えたみたら、黒姫さんや透子さん以外の人と一緒のところ、初めてみましたよ」
「なんすかマスター……俺、それじゃあ、友達いないみたいじゃないすか」
「違うんですか?」
「もーいいっすよ。ブレンド」
「はい。あ、秋月さんもいましたね」
「ああ、百合っすか……って一人!? 合わせて三人?!」
「そちらのお嬢さんは、何にいたしますか?」
「無視か?!」
「カフェオレと、ガトーオペラ、チーズスフレをハーフで」
「かしこまりました――お嬢さん、うちの売りを良くご存知ですね、誰かに伺ったのですか?
それにこのオーダー、黒姫さんみたい……」
清十郎は慌てるが、心は平然としている。
「――マスター、この子は」
「初めまして、黒姫 心です」
「あら! 黒姫さんと同じお名前?」
「はい、従兄弟です」
「まあ、そうなんですか。それでねえ、なるほど――黒姫さん、お元気?」
「……ちょっと、遠いところに……武者修行にいってます」
「黒姫さんらしいわねぇ――それでは、少々お待ち下さい」
マスターが戻ってゆく。
「よくもまあ、あんなにスラスラと言葉がでたもんだな」
「前もって多少は準備しておいたよ。当然のことだろう?」
小声で話す。ややあって、注文の品が届く。
「では、どうぞごゆっくり」
おねえ言葉がときおり飛び出すマスターだが、きちんとした妻帯者だ。
店は夫婦で切り盛りしている。お菓子全般を奥さんが作り、マスターは軽食と飲み物、接客担当だ。
ここのケーキとコーヒーは美味い。心は先ほど頼んだ二つが特に好みだ。
ケーキはラージ・レギュラー・ハーフで大きさが選べる。レギュラーでも小さめなので、ハーフだと二個でも、その量は知れたものだ。
「しかし、朝からケーキとは、朝飯抜きだったのか?」
「ううん。違うけど、すぐにお腹空くんだ。この身体」
女の子になって、一度に食べられる量は極端に少なくなった。
同時に、頻繁に空腹を感じるようにもなった。一度の食事量が減ったことを考えれば、当然といえるのかもしれない。これまで家にいるときは、朝・昼・晩の三食に、午前と午後のお茶があった。いまは午前のお茶の時間を、少し過ぎたところだ。
それにもう一つ、極端に寝起きが悪くなり、睡眠時間も延びた。一日八時間以上は寝ないと、つらい。
なんだか、食べて寝るだけの小動物にでもなったみたいで、面白くない。
「それで? いったいどうしたわけで、そんな身体に?」
「実は――」
心はとりあえず、自分について知っている情報を、ほとんどすべて話した。
二週間ほど前、とつぜん女の子になってしまったこと。原因は分からないこと。
家族や周りはみんな、最初から心が女の子で、末っ子だと認識していること。
それから、だんだん自分が『おかしく』なり始めていること。
「なんていうか、ときどき頭がポーッとするんだ。頭がきちんと働かない。それに、わけもなく、急に怖くなったりする。すごく、すごく怖いんだ」
ケーキを突付きながら話す心の所作は、もうすでに、ほとんど完璧に女の子のものだ。
座っている心の膝は、内股気味にピタリと閉じられていて、男のように足が開くこともない。
小さな口で上品に、少しづつケーキを食べている。
上目遣いで見上げてくる心に、清十郎は見惚れている。
大きいくせに黒目がちな瞳、目尻は少し上がり気味だ。細く高い鼻、薄桃色の小さな唇、すべてのパーツが絶妙なサイズとバランスでそれぞれの位置に収まっている。
透けるように白い、剥きたてのゆで卵のような肌。明るい栗色の、つやつやしたやわらかな髪。
すらりとしなやかにのびた四肢。抱き締めたら壊れてしまう、そう確信できるほど華奢な身体。
なんだか甘い香りが漂ってくるような気もする。
見れば見るほど可愛いらしい、間違いなく極上の美少女だ。
子供っぽいことを別にすれば、であるが――それとて好みの問題にすぎない。
頼りなくて儚げな、その全身で仔猫のように――私を守って――と、庇護を求めているかのように見える。
「……清十郎?」
「――あ、すまん。ちょっとな」
「ひょっとして、疲れてる? ごめん……へんなことに巻き込んじゃって」
清十郎はすでに社会人として働いている身だ。今回は少ない休みを使って、わざわざ心に付き合っている。ちなみに今日は金曜日、平日だ。
「いや、そうじゃない。気にしないでいい。それに、お前が自分から俺を頼るなんて、珍しいからな」
心と彼の関係はどちらかというと、清十郎が心にお節介を焼いてきたかたちなのだ。
「しかし、こうなっちまったら、電話も使えんわな。道理でメールで連絡してきたわけだ」
「うん、この声で電話しても分からないだろうって――それにしても、よく信じてくれたね?
ボクが心だって」
「アレを見せられちゃあな。信じないわけもいかねぇさ――それだけじゃないけどな」
「え? 蹴り以外に何かあるの?」
清十郎は自分の瞳を指さす。
「ココだよ。ココ」
「目?」
「そうだ、お前の目、いや、瞳だよ。お月さんだ」
当たり前すぎて忘れていたが、彼の指摘で思い出す。自分の瞳には、かなりの特徴があることを。
心の瞳の色は、琥珀色なのだ。しかも右目のほうが少し明るい、オッドアイだ。
清十郎はそれを称して、『月』だとか呼んでいた。
心は自分が女の子になった最初の朝、なぜ自分を自分と認識できたのか分かった気がした。
もしこれが普通の黒い瞳だったら、逆に違和感を感じていたはずなのだ。
清十郎はふたたび心に見惚れながら、目の前の少女に間違いなく、親友の面影が残っていることを感じていた。
{そうだ、この目だ}
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初めて心を見かけたのは、高校の入学式の日だった。はっきりいって、やたらと目立っていた。
小柄な、線の細い美少年。出会った頃の心はまだ鍛え込む前で、ひ弱でこそないものの、逞しいという感じではなかった。顔も女顔で、下手な女子よりずっと整っている。
それでいて妙に自信ありげというか、堂々としているというか……背筋を真っ直ぐ伸ばして、(自分には、何らやましいところはない)
とでもいいたげな感じ。それでいて、なんとなく影があるというか、印象が柔らかいというか、寂しげな雰囲気も漂わせる。
二人は同じクラスになった。
心はクラスの女子たちの間でも、すぐに騒がれていた。男子より、女子と打ち解ける方が早かった。
二人の通った高校は新設校で、彼らが一期生だ。クラス分けは入試と入学直前の、テストの成績で決められていた。彼らのクラスは、その最上位クラス、J組だった。
いざ高校生活が始まって、心はどんどん目立つようになっていった。勉強は出来る。スポーツも得意。
おまけに容姿も良いときている。あっという間に校内でも有名人になっていた。
一方の清十郎も、この高校へ最大数の生徒を送り込んだ、地元の中学の主席卒業生だった。
彼の家は地元でちょっとした名士であり、清十郎自身も小・中学時代から、自然と人の輪の中心にいるような、男女を問わずもてるタイプだった。
心はわざわざ、他県の新設校へと進学していた。同じ中学出身の生徒は女子が一人だけだ。
まだこの頃、清十郎と心は特に親しくしていたわけではない。
ただ、ことある毎に、お互いが――
「「こいつ、できるな」」
という印象を持っていただけだ。
そんなある日、ちょっとした事件が起こった。どこにでも『そういう』輩はいるもので、この高校をシメようという連中が現れたのだ。彼らはA組の生徒たちで、彼らの弁によると、
「お勉強ばっかりのヤツラに根性で負けっかよぉ」
だそうな。それでBから始まり、順番に一クラスづつシメていった。
やがてゴールデンウィークも明け、五月も半ばを過ぎた頃、心たちのクラス、J組の番がきた。
このとき、最初の標的にされたのが心だったのだ。とうとう最後のクラスになって、A組の不良くんたちの意気も相当に上がっていた。同時に彼らは慎重にもなっていた。
J組には清十郎がいたからだ。実は不良くんたちの中心は、清十郎と同じ中学出身だった。
清十郎は強い、レベルが違う。彼の家は十代近く続いた古武術の宗家なのだ。
しかも彼は中学卒業前に、皆伝の免状をもらっていた。すでに家は兄が継ぐことが決まっていたが、それは何も、兄の方が強いからではない。むしろ逆だ。清十郎の天才ゆえに、彼は家を出て、独自の道をゆくことを期待されたためだ。そして彼自身、己の道を生きることを望んでいる。
そんな清十郎だから、もとより不良くんたちのような連中のすることに興味などない。
しかし、頼まれたら嫌とは言えないお人好しなところもあって、不良くんたちがあまりに横暴な真似をしたときは『懲らしめて』きたことが、何度もあった。
中学時代から清十郎に、さんざん煮え湯を飲まされてきた不良くんたちは考えた。
いまさら数を恃んだところで、ヤツに勝てるかどうかは疑問だ。
それよりも、清十郎以外のJ組の連中を叩いてはどうだろうか?
その上で、話し合いという形で手打ちに持っていく。これなら、こちらの面子も立つ。
上手くすればクラスメートを人質にすることで、ヤツに一泡吹かすことすらできるかもしれない。
なかなか考えたものだ。
清十郎は不良くんたちのいう『面子』になど興味はないから、クラスメートに手を出さない代わり、この高校は俺達がシメたと認めろ、と言われれば簡単に承諾してしまうはずだった。
その最初の標的に心が選ばれたのは、単純な理由だ。
誰も良くは知らない、他県からきた優等生。女どもにキャーキャー騒がれているのも気に入らない。
何より、外見上は荒事が得意そうには見えない優男だ。
ガリ勉野郎の集まりの、J組の代表のようなアイツこそ、最初の獲物にふさわしい。
さっそく、心が放課後の屋上に呼び出された。なるべく強面でない連中をつかってだ。
「うん、いいよ」
なんの疑問もないようすで、心はついてきた。
{こいつ……アホか?}
呼び出しに出向いた連中は、心のあまりの無防備さにこころの中で呆れていた。
この様子を、不良くんたちの顔を知る、北原という清十郎の友人が見ていたのだ。
北原は清十郎を探し出し、そのことを伝えた。
「嶋岡!! 黒姫が、例の優等生がA組の連中に呼び出された!」
「マジかよ……高校生にもなって、進歩がねえ奴らだなあ。んで、どこだ?」
「屋上だよ。間違いない」
「いつも通りかよ。ほんとに進歩のねえ……で? 黒姫はついてったの? のこのこと?」
「ああ、なんか普通の顔して」
「アイツもそんな莫迦だとは……そんなヤツには見えんかったが、なあ?」
「いや、普通って、そういうんじゃない。なんつーか、女の子に呼ばれたときと同じようで――」
「ふーん?」
わざわざ清十郎を探した北原も、それを聞いて一応ようすを見に行く清十郎も、お人好しなことだ。
だが、この件があったおかげで、さらには、北原と清十郎がお人好しだったおかげで、二人は『出会う』ことができた。だから心は、今もこころの底で感謝している。
「おーい、五島。うちのクラスのヤツをいじめんでくれい」
屋上についた清十郎はのんびり声をかけつつ、扉を開いて回り込んでいった。
そこに、いた。
沈む夕日を受けて照らし出され、静かに佇む少年。まるで一枚の絵画のようだ。
金色の光の中で、彼の瞳は美しく輝いていた。だが、どこか寂しげに遠くを見ていた。
{きれいだ……うん、きれいだな}
清十郎は素直にそう感じた。事実、心は美しい。昔も、今も――男女の違いなど問題ではない。
「やあ、わざわざ来てくれたの? やさしいんだね。えっと、嶋岡くん?」
「清十郎でいい。黒姫――だったよな」
「僕も、心でいいよ」
「そうか」
「うん」
周りを見れば、不良くんたちの中心メンバー、五島以下三名が転がっている。
「お前がやったのか?」
心の両手は血に染まっている。
「うん。でも本当は、君に用事があったみたい――不味かった?」
「うーん……まあ、俺は困らんのだが。ちと、やり過ぎだな」
「そう思う?」
「他の連中は、逃げちまったか……しゃあねえ、運ぶぞ。手伝ってくれ」
くすくすと心は笑う。
「何か、おかしいか?」
「やっぱり、君はやさしいんだね。清十郎」
「その通りだ。俺はやさしいぞ、すごーく、な」
胸をはって清十郎は答えた。しばらくの沈黙。
二人は顔を見合わせて笑った。
「――なにか、やってるのか?」
「ううん。あ……いいや、空手を始めたところ、かな」
「そうか」
「試す?」
「やめとけ。俺は強いぞ。やさしいが、その倍くらい、強い」
「知ってる、だから」
「そうか。じゃ、試すだけだぞ? 心」
「うん。勝てないの、分かってるから――やさしくしてね?」
「ああ、いつでもいいぞ」
心が両手をさげたままの姿で、事もなげに、するすると清十郎に近寄っていく。
その、水が流れるかのごとき自然さに、さすがの清十郎も、{あ……}
おもわず腰を浮かした。このように大胆で、しかも自然な接近を経験したことがない。
あっという間に、二人の間合いがせばめられた。
こうなっては引くも退くもない。
心の足が跳ね上がり、前蹴りを放つ。
「鋭ッ!!」
「む!」
からくも両腕でガードした清十郎は、目を見張った。
{重てぇ!}
心の体格からは想像できないほどに、重く、鋭い蹴り。
つづけざまに数発、ガードの上に叩き込まれる。
ガードした腕がしびれてきた。回し蹴りではない、前蹴りなのだ。
それなのに、この威力。腰の入り方が違う。バネが、筋力が、柔軟性が桁違いだ。
{長げぇ! 速えぇ!}
身長は清十郎の胸ほどまでしかないのに、足が長い。おかげで間合いが微妙に広い。
そのうえスピードがすごい。蹴りそのものも、移動も、両方だ。
小刻みに位置を変えているが、決して単純な前後移動はしない。
斜め、左右に動き、射線を微妙にずらしてくる。前後移動をしても、きちんとフェイントを効かす。
さらに、突きを見舞ってくる。突きも、蹴り同様に鋭く、重く、はやい。
突き蹴りをおりまぜた、コンビネーション。
さばきながら、清十郎も突きで応じる。だが、当らない。
ガードとか、さばくのとは違う。きっちりとかわしている。
{こいつはスゲェ! たいしたもんだ。五島たちじゃ、相手にならん}
突き蹴りの型自体は空手のものだ。だが、身体の動きは違う。空手では、ない。
もっと自然な、動物のような動き。突き蹴りで、ボクシングをしているような、そんな感じだ。
{キックとも違う。んなことより、やべぇ。このままじゃ、負け……勝てない? そういや}
――先ほど、心は言った。
「ううん。あ……いいや、空手を始めたところ、かな」
「うん。勝てないの、分かってるから――やさしくしてね?」
{空手を始めたところ、勝てない……そうか}
このままでは、負けるだろう。ならば、思いつきを、即実行する。
怪我を覚悟で、前蹴りを受けながら、足を掴む。
「ヴっ!!」
ぎりぎりで、水月にも、肋骨にもダメージをもらわずにすんだ。
足を取られたまま、心はさらに蹴りを見舞ってくる。
中足での回し蹴り。引き倒して、ぎりぎり避ける。
{危ねぇって! もらったら、終ってたな}
「ぐぅ!!」
背中から叩きつけられた心が、はじめてダメージをうける。
このままマウントにもっていきたいが、身体のわりに長い手足が、邪魔だ。
{こうすりゃ、どうだ?}
足をからめて、関節技にもっていく。そのまま中腰で、心の重心を操作できる位置にのる。
心は下からの掌底を繰り出し、抵抗する。
「うっ!」
{肩から先のひねりだけで、これかよ!!}
とんでもない。まさに、天才。いや、それ以上だ。
顔や顎に数発くらいつつ、腕をからめとる。頭がくらくらする。
心の長い手足と、二人の身長差の両方を利用し、即興の、超変則マウントポジションが完成する。
「手間ぁとらせてくれたな?」
心はあいかわらず微笑をたたえたままだ。最初から、ずっと表情を崩していない。
清十郎が拳を振り下ろす。
ピタリと、心の鼻先で拳が止まった。
手をほどくと、軽い平手打ちを頬に喰らわす。
「やっぱり……やさしいんだね、清十郎。参ったよ、僕の負け――強いな」
清十郎はなぜか、心の顔を殴る気になれなかった。だから、平手でお茶を濁した。
別に理由があって、憎んで遣り合ったわけではないから、これでいいと思った。
負けを認めさせたとはいえ、清十郎の方がずっとダメージは大きい。
「――たくよぉ! ぼこぼこと、人様を殴る蹴るしやがって!!」
「ごめんね。手加減は、まだまだできないんだ」
「んなこったろうと思ったよ。おかげで男前が台無しじゃねえか……」
「そう? あんまり変わらないよ?」
「てめぇ!!」
ふたたび、大声で笑いあった。
この日から、二人はつるむようになった。
試合やスパー以外で二人が遣り合ったのは、いまのところ、この時が最初で最後だ。
******************************************
コーヒーを一口、啜る。
「――で。いま、お前いくつなんだ?」
みたところ、ずいぶん幼い感じを受ける。気になって尋ねた。
「えっとね、15歳だよ」
「そうか……ちょうど同じだな」
「なにが?」
「俺達が出会った時と、だよ」
「でもボク、遅生まれだったから、あのときもう16だったよ」
「そうだったな。でも、高一なのに変わりはないんだろ?」
「それがねえ、ボク、高校いってないんだ。やめちゃったみたい」
「またかよ!」
「なんかねぇ、理由は分からないんだけど――」
*****************************************
つるむようになってすぐ、二人は『格闘クラブ』をつくった。
とはいえ、顧問がいるわけでもなく、練習場があるわけでもない。
メンバーも二人だけで、正確には『名乗った』というべきだろう。
適当な場所で、二人でじゃれ合っていただけだ。
清十郎は生家の流派、『嶋岡当流』の技法をいくつか心に手ほどきした。
心はそれを、瞬く間に吸収していく。清十郎も、さすがに舌を巻いた。
{やっぱり、こいつはすげえ……}
清十郎はまぎれも無い天才だ。それは周りの多くの人が認めるところだ。
その彼をして、心の才能が恐るべきものであることは、疑いようがなかった。
彼は心を家に招き、道場での鍛錬に付き合わせたりもした。
心はそのころ、父による空手の手ほどきを受け始めたばかりだった。
正式に、何かの道場に通うべきだという、清十郎の勧めを、いつも笑って受け流す。
「つまらない、こだわりがあるんだ……ほんとに、ちっぽけな」
もとより多くを語るような、多弁な男ではない心が、清十郎と付き合ううち、ぽつりぽつりと、その過去と少々複雑な心情とを、もらすことがあった。
「――親父を打ん殴るのに、親父に空手をならう、ねぇ……お前、変わりモンだな」
「へん……かな? やっぱり?」
「うむ! そうとうな変人だな、もしくはファザコンの一種だ! 間違いない!」
「ひどいなぁ……でも、そうかもね」
「しかも、親父をとっちめたい理由は、お袋さんのことだろ? マザコンでもあるな!」
「うぅー……否定は、しないよ」
まったくの偶然だが、二人はかなり近い時期に、母を亡くしていた。
母を思う気持ちは、清十郎もわからぬわけでもない。
「それに、あれだろ? お姉さんと妹さんも、自分が守りたいっていうんだろ?
シスコンの気もあるときた。完璧だな、いわばファミリー・コンプレックスだな!!
略して、ファミコンだ!!」
ビシィッ!! と指を突きつけて、胸を張る清十郎。
「清十郎……つまんないよ、それ」
「駄目か?」
「寒い……」
「ぬう……ならばっ!! 俺様があたためてやろう!」
「うわぁああ!!! 気色悪いなぁ!! さわんなよ! 抱きつくな! 汗臭いってば!」
逃げる心を、清十郎が追いかけまわす。
「待てぇええーい! はーはっはっはっは!!」
「来るなぁ! 来るなぁあああ!!」
こうして莫迦をやって、じゃれあっているときが一番たのしかった。
心は正直にいって、こんな風に仲の良い友人ができたことが、信じられなかった。
同年代の男の友人が、まともにできたのは、初めてのことといってよかった。
わざわざ黒姫家のことを知る者のいない、他県の新設校にきて、本当によかったと思った。
清十郎のおかげで、他のクラスメイトたち、特に男子とも打ち解けることができたのだ。
心は本来なら、恋や愛と同じ高校に進学するはずだった。
それを、判子まで持ち出し、自分で勝手に手続きをして進学先を変えた。
恋と愛は高校まで、心にとっては中学までの母校――私立I学園
幼稚舎から高校までの、エスカレーター式の学校というやつだ。
地元では、多少とも教育に熱心な家庭、そして裕福な家庭の子女は、ほとんどがここに通う。
そのなかで、ずっと心は孤独だった。小学校の、特に低学年までは病弱だったせいで、学校自体ほとんど通っていなかったし、たまに行ったところで、打ち解けることなどできなかった。
黒姫家は、地元ではあまりに『特別』なのだ。
そのことを知っている者であっても、ごく子供のうちならば、ほんの少しは付き合う者もいた。
だが、大半は『特別』な家の子である心を、避けたり、気味悪がったり、時には虐めたりもする。
小学校では、黒姫家を知っている者が大半であったし、それを知らない子供たちも、まわりに従って心を避けた。高学年になって、ある程度の分別がついてくると、なおさらに、心に対して腫れ物に触るような扱いをしてくる。
中学生になると、『外』からも新たに生徒たちが入ってくることになる。
黒姫家のことを知る者は、相対的に減ることになるが、根本的にまわりの態度は変わらない。
ただ、表面上で付き合ってみせるだけだ。本当に仲良くなど、してはくれない。
そういった意味で、男子より女子の方が、多少なりともまともに付き合ってくれた。
男より女の方が、そういう面では器用なものだ。
なにより、心の容姿に惹かれて、女の子たちはごく軽い友達にはなってくれた。
だが、黒姫家のことを知る者が、そういった女子たちに耳打ちする、彼は『特別』な家の子だと――結果、遠巻きにして騒ぐだけになっていく。
恋や愛となら、女同士であるから、ある種の安心感もあるのだろう、浅いながらも二人はそれぞれ、一応の友達付き合いをしているらしかった。
恋が憧れの先輩なのだと、声高に主張する女子を何人も目にした。愛も似たようなものだ。
男子連中にとっても、二人はいわゆる『高嶺の花』扱いをされていたようだった。