カーテン越しのやわらかな朝日で、心は目を覚ました。昨日と同じ、なんだかスッキリしない。
「おはよう」
目の前に恋の顔、彼女の腕の中に抱きかかえられている。
「‥‥おはよう‥ございます」
何故か、すごく恥ずかしい。一体どうして姉のベッドにいるのか、しばらく思い出せない。
(あのまま、寝ちゃったのか‥‥)
ぼんやりした頭で、昨夜のことを何となく思い出す。下腹部が少しだけ疼く、『朝立ち』に似ているような、まるで違うような、妙な感覚。
(なんだろう?‥‥なに?)
怖い夢を、嫌な夢をみたような気がする。けれど何も思い出せない。
恋が起き上がる様子を、とろんとした視界の中で見上げる。まだまだ眠い、もっと眠っていたい。
「あらあら‥‥」
恋の腕が伸びてきて、自分の衣服を触っている。寝乱れたのを直しているらしい。
(僕、何にも着てないんだっけ? まあ、いいや別に‥‥)
ハダカを見られているのに、そのことはちっとも恥ずかしくない。本当にどうでもよかった。
ゆっくりと起き上がる。思いっきり伸びをしつつ、小さな口を目一杯あけて欠伸をする。
本人はまったく意識していないが、一つ一つがとても愛らしい所作だ。
目尻の涙を指先で拭い、もう一度――
「おはようございます。恋お姉ちゃん」
自然と笑顔になっている。何から何まですべてが可愛らしい、無防備な姿だ。
「はい、おはよう。心ちゃんたら寝ぼけちゃって、二度目のご挨拶よ?」
抱き締めて、額にキスを見舞ってくる。唇が触れた瞬間、心は真っ赤になってしまう。
もちろん意識しての事などではない。先程までの無防備さから一転して、度が過ぎるほどの恥じらいぶり。
これが演技だったら、一流の役者になれるだろう。
(なんで? どうしてこんなに恥ずかしいんだよ? どうしちゃったんだ?)
軽くパニックを起こしてしまう。
「うー‥‥あ‥」
「さあ、行きましょう。朝ご飯よ。愛ちゃんが待ってるわ」
「はい‥‥」
訳が分らないまま、手を引かれて行く。
台所では、愛が朝食の準備をだいたい済ませたところだ。
「おはよう。愛ちゃん」
「恋姉、おはよう。昨日は眠れた?」
「ええ、お蔭様で……」
何故かこんどは恋が顔を赤らめた。心はおずおずと恋について、愛に近寄る。
「‥おはよう。愛姉ちゃん」
「おはよう。寝坊助姫、昨日はよく眠れたかな?」
抱きつかれて、こんどは頬にキスされた。やはり真っ赤になってしまう。
(まただ‥‥どうして? 昨日はこんなことなかったのに‥‥恥ずかしい)
心には分るはずもないが、先程からその表情は目まぐるしく変化している。挨拶をすれば微笑み、テーブルの上の料理を見れば興味深そうに瞳を輝かせ、手を握られると安堵の表情、抱き締められれば軽い驚き、そのあと心地良さそうに目を細め、キスされれば真っ赤になって恥らう。
すべての表情は自然で可愛らしい。外部からの刺激に対する情動のすべてが、脳の判断を待たず、ダイレクトに表情や態度、雰囲気にまで表れているようだ。
くるくると万華鏡のように、表情を変える心。
恋と愛にとっては、そういう心が当たり前であるから、少しも不自然さを感じない。
むしろようやく、いつもの心が戻ってきたと考え、気分は明るくなっている。
凄まじい速度で、心のこころは身体に、女の子の『心』に侵蝕されているのだが、彼はまだそのことに明確に気付けないでいる。
現にいまも、下着すら身に着けておらずバスローブを羽織っているだけの格好で、そのまま食事することに何の抵抗も感じていない。そんなことは男の時はありえなかった筈なのに。
今朝の献立は胡桃・干し葡萄・プレーンのスコーン、数種類のジャム、ベーコンエッグ、フルーツ。
なんだか、半分おやつみたいな献立だが、若い女三人だけだとこんなものなのだろう。
心の飲み物は例によってミルク、他にオレンジジュースも用意されている。恋と愛は紅茶だ。
食事も終わりかけた頃、恋が口を開く。
「今日はお買い物の前に、田崎先生のところで診ていただきましょうね、心ちゃん」
「……田崎先生?」
「ええ、田崎先生」
(田崎先生って……たしか開業医で産婦人科の? 『産婦人科』?!)
『産婦人科』――その言葉の意味するところを考えようとして、心は動揺する。
(産婦人科で診てもらう? 僕が? コノ身体ヲミラレテシマウ? ドウシテ?)
もじもじと考え込んだ心に、恋は心配そうな視線を向ける。
「心ちゃん? 心ちゃん、どうかしたの?」
「……あ。なんでもない」
「恋姉、コーヒー飲む? 久しぶりに飲みたくてさ」
無理矢理に話の腰を折ってくる。
「そうねぇ、いただくわ」
「僕も」
「お子ちゃまはやめておけば?」
「平気だよ! 僕も飲む!!」
露骨にからかわれて、カチンときた。ムキになって、先程までのモヤモヤを忘れてしまう。
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食事が済んでしばらく後、三人はドレスルームにいる。
以前は母が、その生前には祖母も使っていた部屋。明確にそうと決まっている訳ではないが、暗黙のうちに男子禁制、男で入れるのは小さな子供くらいになっていた。
泊りがけの女性の来客があった時も、身だしなみのためにこの部屋を使ってもらう。
そういう訳で、心がこの部屋に入るのはほぼ初めてのことと言っていい。
母の生前、小学校に上がる前くらいに数回入ったことがあったが、ほとんど覚えていない。
(それにしても凄いね、これは……)
その大きさから明らかにいまの、女の子の『心』の物だと分る大量の衣服がズラリと並んでいる。
離れの自室にあったものは、それらの中のほんの一部に過ぎなかったということだ。
様々なドレスの類から、一般的なシャツやブラウス、スカートにパンツ、ジーンズやスウェット、ありとあらゆる種類の服がグループ分けされてハンガーに掛けられ、壁一面の収納に収められている。
(こんなのドコで着るんだろう?)
毛色の変わったものにはチャイナドレスや修道服みたいなものまである。
恋と愛にもそれぞれの一角が設けてあるが、明らかに心の方が規模が大きい。
もっとも、彼女らは各々の自室にも収納スペースがある、この場にあるのが全てではないだろう。
心の記憶が確かならば壁の収納には和服もあったはず、母は和服もよく着ていた。
母のように『心』もそうだとしたら、心は和服の類もかなり持っていることになる。
(いったい、いつ着るんだよ? こんなにあってどうすんだ? で、今日は買い物って――おい!)
恋ならば、分らないこともない。彼女は『お付き合い』が多い、それなりの場で相応しい格好が求められる。
だが、いまだ高校生に過ぎない『心』にはこんなに衣装が必要とは思えない。
「はい。心ちゃん、今日はこれにしましょうね?」
「それならこっちの方が良いってば! ほら」
恋と愛はさきほどから、心が今日着て行く下着をどうするかで揉めている。
色々なヤツを引っ張り出して来ては、あーでもないこーでもないとやり合っている。
心は正直に言って何でも良いので、その間に部屋の中をウロウロと見て回っていた。
「心ー!! ちょっと、何してんの? はやくおいで!」
「はーい」
どうやら決まったらしい。小走りで二人のもとに行く。
「ねえ、心ちゃん? こっちの方が良いわよね? ね?」
昨日着せられていたようなレースの下着を持って、恋が訴えてくる。
「もー! しつこいってば。昨日は恋姉が選んだから、今日は私。筋は通るでしょう?」
(最初から、僕の意思は関係なしか? 別にいいけど)
「…愛姉ちゃんの方がいい」
いい加減に選んでみせないと、いつまで経っても終らないと考えて愛の方を選んだ。
選んだ理由はなんと言うか、こっちの方がより『男っぽい』から、薄いブルーでボーイレッグのタップパンツと同色のビスチェ。上はどちらも大差ないが、下はこちらの方が、男のボクサーブリーフに近い型で安心感があるような気がした。
勝ち誇った愛からそれを受け取り、さっさと身に着けることにする。
バスローブを脱ぎ捨てる。二人に素裸を晒しているのに、そのこと自体はまるで恥ずかしくない。
なぜかそれが当たり前であるような気がしている。すでに意識すらしていない。
タップパンツを穿いて、ビスチェを手に取りしばし考え込む。身に着け方が分らないのだ。
「しょうがないなぁ。ほら、おいで。ここをこうして、こうで――」
愛に手伝って、いや着せてもらう。
「あー!! ちょっと恋姉。こっち来て。見てってば!」
「……え。なあに? どうかしたの?」
前面が編み上げになっており、それで細かいサイズを調節するのだが、途中で愛が何事かに気付く。
しょんぼり落ち込んでいじけていた恋が、大声で呼ばれて我に返る。
「ほらっ! 心の胸、大きくなってる!!」
「本当? 間違いないの?」
「この前、同じ型のを着せた時よりも大きくなってるの。間違いないよ。ほら、よく見て」
「まあ! 本当だわ――心ちゃん、良かったわね? おっぱい大きくなったわよ」
二人に面と向かって大きくなったと連呼されて、猛烈に恥ずかしくなってくる。
同時に心の男としての精神が、凄まじい動揺と恐怖を感じている。
(大きくなった? 僕の胸が――おっぱいが大きくなった? オッパイ?――
このままじゃ、本当に女になって――嫌だ。どうしたらいい?……嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ)
「嫌だ!! 嫌だぁー!!!」
自分の胸を抱え込み、真っ赤になってしゃがみ込んだ。心のただならぬ様子に二人は慌てる。
「どうしたの心ちゃん? 大丈夫よ。何も怖くないからね?」
「心、怖がらなくても――あっそうか! そうだよね。胸が大きくなり始めたら、身長が止まっちゃう人もいるから……心はもっと背、高くなりたいって言ってたし――」
「あっ、そうなのね? 大丈夫よ、きっとまだまだ伸びるから。ね?」
慌てたせいか、根本的に噛み合わない問題にすり替えようとしてくる。
二人のそんな様子を見ているせいで、かえって心は落ち着いてくる。
(しっかりしろ。元に戻るまでは、どのみちこのままなんだ。こんな事で取り乱すほうが、女みたいで情けない。こころまで女になるつもりか!! しっかりするんだ)
「――ん。もう大丈夫。ごめんなさい。何でもない、平気」
涙をぬぐいながら、二人に笑いかける。
「ほんとに大丈夫? なんでもいいのよ? どんなことでも言ってね」
「っま。背は伸びるから、きっと。さて、心が平気って言ってるんだから、これはお終い。
はやく仕度を済ませて、出かけましょ――心、座って、UVメイクするから」
「待って、トイレ」
「また? やっぱり私の言うとおり、コーヒー止めとけば良かったのに」
「違うよ! 関係ないってば!!」
「違いません! カフェインは利尿作用があるの。効果覿面じゃない」
食事の後にトイレは一度すませたのだが、そのあと既に二回もトイレに行っている。
はっきりいって、愛の言うとおり図星なのだが、くやしいので認めたくない。
それにしてもカフェイン如きがこんなに響くとは、この身体は中も外も、刺激に弱いというか、敏感というか。
「それとも何? おしっこじゃないの?」
「ぅ……おしっこ、です」
「ほーら、ごらんなさい。お姉さまの言う事はキチンと聞くの」
「いってきます」
くやしいが仕方ない。大人しく退き下がってトイレに行く。下着姿でそのまま行ってしまう。
「待ちなさい心ちゃん。そんなはしたない」
「大丈夫よ。家なんだから、誰に見られるわけでもないじゃない」
「駄目よ。そういう問題じゃないの――」
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心が戻ると、二人はすでに下着姿でメイクを始めている。心のことだと散々もめるくせに、自分たちのことはスパッと決めてしまうのが不思議だ。
「来たわね。ほら、ここに座って」
片側の壁一面が大きな鏡になっている、その前の椅子の一つに座らせられる。
例によって、心の皮膚は弱いので紫外線を防ぐためのメイクをする、のだそうな。
手や足、首筋からお腹、皮膚の露出している部分すべてにクリ−ムを塗られる。
そのあと顔にもクリームを塗られ、なにやらファンデーションをパタパタつけられ、唇にリップもされた。
あとは別におしゃれでメイクするわけではないので、特別なにもしない。
「下手にいろいろすると、かえって良くないからね」
メイクが終ると、次は髪だ。愛は手の平にワックスを取り、よく馴染ませてから心の髪にはたき込む。
適当にバランスを整えて終わり。今の心は長めのベリーショートだから他にセットのしようがない。
メイクと髪のセットをしてもらう間、心はいかにも機嫌が良さそうに微笑し、脚をぷらぷらさせている。
鼻唄でも歌い出しそうな感じだ。しかし、本人にまったく自覚は無い。
「心ちゃん! ねえ心ちゃん? どっちにする?」
さきほど下着で負けてしまったので、服は自分が選びたいのだろう。恋が服を二つもってヒラヒラさせる。
「左」
即答した。どちらもワンピースだが、左の方がシンプルで好みに合った。恋がガックリうなだれる。
「ふっふっふっ――ほーら、ごらんなさい」
どうやらこちらが愛の選んだもののようだ。白い中華風の、と言ってもチャイナドレスタイプでなく、功夫着タイプの前身頃になっている。とめ具の紐が黒いのがアクセントだ。靴は黒いバレーシューズ。
仕度が済んだので、二人の仕度が終るまでの間、心は猫たちに餌をやることにした。
「お出かけするんですから、汚しちゃダメよ?」
「分ってる……」
なにをするにもまるで子供扱いなのは、さすがに勘弁して欲しい。
「小春ー! 桂ー! 信綱ー!! ご飯だぞー!!」
庭に出て、猫たちを呼ぶ。猫たちは外に出されっぱなしなのだが、決して庭からは出て行かない。
必ず庭のどこかにいる。今のこの子たちが何代目なのか、心は正確には知らない。
心がものごころついた時には、すでに猫たちはこの家に飼われていた。
それから四代ほど入れ代わったが、代々ずっと黒猫でつねに二・三匹はいたのだ。
すぐに猫たちは駆け寄ってきた。ゴロゴロと喉を鳴らして擦り寄ってくる。頭を撫でてやりつつ、それぞれの皿に缶詰のキャットフードを盛ってだしてやる。
「いまは家で男はお前だけなんだね……なのに一番甘えん坊だね、お前は」
信綱の頭を撫でてやると、嬉しそうに目を細めている。
「心ちゃーん。行きますよー?」
「はーい」