光と影があるように、
プラスとマイナスのように、
この世界にも、表と裏が存在する。
表の世界は法と秩序によって成り立っている事が原則とされる。人権第一として、人々の安全が保証されている世界。
裏の世界は無法無秩序。正しく表と正反対の性格である。表舞台に現れないように、静かに、時に激しく変化していく世界。
だが、今のこの世の中に「法による平等」など形だけでしか存在せず、段々と罪の意識も薄れていっている。
表の世界が、裏の世界と同じような状況にきつつあるのだ。
そうした変化を喜ぶのは、勿論裏の住人達だ。狭まれていた活動範囲が広がり、より自由で活発な行動がとれるようになるからだ。
だが、彼等は表には出てこない。何故か。
出てこないのではない。出れないのだ。彼等は口を揃えて言うだろう。表裏一体のこの世界を繋ぐ扉を守る、門番の名を。
その名前は───
賑やかな商店街。多くの人が、自らの欲求を満たすために忙しなく動いている。休日ということもあり、若者も多く視界に映る。
そんな場所にも、闇は存在する。例えば、建物と建物の間にある裏路地。
そこに、それはいた。
第一印象は・・・黒。
腰まであるか、と思わせる長い髪の色、前をしっかりと閉じたロングコートの色、スリムパンツの色、靴の色。そのどれを見ても黒なのだ。ただ、それとは真対象に白い肌。全身を包む黒の中、顔だけが白く浮かび上がっていた。
無表情ながら、きりっと整えられた眉、形の良い朱唇。さらに、服の上からでもわかる、豊かに実る双丘。その美しさは正に女性のものであった。
太陽の光もあまり届かない狭い場所で、壁に寄り掛かり両手をコートのポケットに入れ、瞼を閉じてただそこに佇んでいる。一見すれば、まるで眠っているようにも見えた。
別の見方をすれば───影。
「──待たせたね」
人の気配の無かった場所に、男の声。突然現れた気配に、しかし影は全く動じない。
路地裏の奥から現れたのは、酷く滑稽な姿をした男だった。ぼさぼさ頭の黒髪に眼鏡、そして白衣。
いくら冬だからと言っても、わざわざ白衣を選ぶ馬鹿はいない。
「遅いぞ」
鈴の音を思わせる、透き通った声。女神の声かと思わせる。その内容は酷く無慈悲で、その顔に微笑みはないが。
「すまないね、多少用事が詰まってて」
男は可笑しそうに微笑み答える。なにが可笑しいのだろうか。詰められた用事がか、この影の態度がか。
「それで、用件は何だ。こんな人込みの中に呼び出して」
内容とは裏腹に、女には苛立ちの感情はみられなかった。いや、寧ろ何の感情も伺えない。瞼を閉じたまま、まるで機械の如く。
「その前に」
男が女の前に立った。女と同じように、白衣のポケットに両手を入れて暖をとっている。
「どうだい?女の体の具合は」
あくまでも、その表情は微笑み。何が嬉しいのか、何が楽しいのか。
それよりも、男の言葉。もしそれを正しくとるするならば、女は元々「女」ではなかった事になる。
「どうという事はない。筋力が衰えて大口径の銃を扱いにくくなったが、特別支障が出ている訳ではない」
義務的な報告。快も不快もない。
「成程、相変わらずって事か」
男は笑っている。女の返答が満足なものだったのか、或いはこの機械の影との会話を楽しんでいるのか。
「まあ、戯れはこの辺にしておこうか」
男の声色が変わった。否、声自体に変わりはない。何かが抜け落ちたような感じ。
その声を合図に、女が重い瞼を開いた。その中に在る瞳を見て、男は寒気を感じた。今し方、感情を殺した筈なのに。何度、いつ見ても、男は同じ感覚を覚えるのだ。
───その、燃えるような紅き瞳に。
「──今回の仕事は?」
そして、女のこの言葉で我に返るのも恒例となっていた。
「ああ、そうだね。じゃ、これを見てくれるかな」
男が内心の焦りを打ち消し、白衣の内側に手を伸ばす。再び出されたその手の中には、一枚の写真が握られていた。
女もポケットから手を出し、ぴったりとフィットしている、これも黒の手袋を着けた手でその写真を受け取る。
「とある大企業の社長、大林権蔵。裏で金を回して、自分にとって目障りな人間を殺して回ってると言われてる」
男は淡々と語っている。それを聞いているのかいないのか、ただじっと写真を見ている女。
「今回の任務はこの男がそれをしている事の証拠を掴む事。残念だけれど、今のボク達では証拠も無しに動くことは出来ないからね」
言いながら、男はポケットから封筒を出し女に手渡す。中身はお互い理解しているのだろう。
勿論、男に残念がる素振りなど見せない。向かい合う二人は、どちらも感情の操作に長けているのか。
或いは欠けているのか。
「殺した方が早いだろう、何故そんな面倒臭いことを?」
「ボク達は仮にも警察だよ?根源を断つだけよりも、とっちめてから色々吐かした方が人道的だろう?」
異様な場所での異質な会話。彼等の関係が見え隠れしている。
「面子か、道徳か。あんた等も面倒臭い集団だな」
皮肉でも嫌味でもない。ただの女の立場から見ての感想。
「言ってくれるね。何なら今ここで君を殺人罪で逮捕するよ?」
苦笑しながら女を挑発する男だが、女は視線を上げずただ一言。
「できるのか?」
「いや」
速攻で否定する男。まるでそう返ってくることを知っているかのように。
否、男は確実に知っていた。その上で、女との会話を楽しんでいる節がある。
「ボク達では君は捕まえられない。でものさばらせる訳にもいかない。だからこうして協力し合っているんじゃないか」
肩を竦めて冗談めかしく言う男。女の反応は、ない。否定か肯定か、無表情という仮面の上からでは判断できない。
「ま、そんな事はどうでもいい。引き受けてくれるね?」
男の問いに、女は写真をコートの内側に仕舞う。
一瞬ちらりと見えた、肩に掛けられたハーネスと、銃。
「拒否権などない事は十分理解してる」
本当に女は事実を告げているだけである。それを知っているから、男は笑っているられるのか。そうでなければ、気の短い者なら何回頭に血が上っているだろうか。
「それじゃ、報告はまたいつも通り宜しく頼むよ」
「待て」
立ち去ろうとした白衣を、女は呼び止めた。そのような事が滅多にないのだろう、多少驚き気味に振り返る。
「何だい?」
「何故こんな場所で落ち合う?俺の部屋に来るか、俺がそっちに行くかでいいだろう」
俺、と言った。確かに一人称をそう定める女性もいるだろうが、先の会話からして、女にとってそれが正しい呼び名なのだろう。
「裏社会きっての『何でも屋』と表社会の警察が繋がっているなんて知られたり、君の素姓が明らかになったりするのはお互いに厄介だろう?」
男の言葉に、女はちらりと上を向いた。つられて男も上を向く。そこには───
何も、ない。
「何処でも見られてる可能性は否定できないがな」
男は吐き捨てるように呟いた。男は黙って苦笑する。
「それじゃ、任したよ・・・『RED EYES』」
男は来た道を戻り歩いていく。白衣などという目立つ格好をしていれば、人混みでは相当浮くだろうに。
そんな後ろ姿を見送ってから、女は歩き出した。黒いサングラスを掛けて、人混みの中にその身を投げる。
行き交う人の波は、女を飲み込まなかった。誰一人、女に関心を寄せるものはいない。
──存在が希薄なんだね、と男は過去に言った。それを女が覚えているか、どうか。