放課後になった。生徒達の自由な時間。
浅人は野球部の部室にいた。自分のサイズに合うユニフォームを探していたのだ。
「・・・ま、これでいいか」
ベルトでやっと止められるくらいのブカブカなズボン。少し大きめのアンダーシャツに上着。
ズボンの上に出している事に加え、サラシを巻いてるため、胸が強調されないようになっている。
・・・だらしなく見えるが。
以上が、ここで予備の物を漁った結果である。
「よし、行くか」
大きめになった帽子を被り、一年の頃から愛用していた野球バッグを肩に担いで、浅人は部室を出た。
「お。来たぜ」
グラウンドを均していた野球部員の一人が声を上げる。
それを聞いた岸田は、ベンチにある選手用通路の出口を見遣り、笑みを浮かべた。
ベンチに現れたのは、小柄な体には似合わない大きなバッグを担ぎ、深々と帽子を被ったツインテールの少女・・・浅人であった。
岸田はグラウンドを均す道具(トンボという)を横にいた奴に預け、浅人に近寄っていく。
浅人はベンチに座り、バッグの中から二つの袋を取り出した。その内の一方を開き、中からスパイク靴を取り出し地面に置く。
「よくもまあ、逃げずに来たものだな」
あまりにもお約束な台詞が、この男に良く似合うのは何故だろうか。
浅人が、ベンチに設置されている麦茶を一口飲んだところで、岸田は浅人に声をかけた。
「部活に出るだけだ。野球部員が野球部の活動に出て、何の不思議がある?」
男言葉は、今の浅人にはあまりにも似合わなすぎる。が、野球のユニフォームを着ている分、まだ説得力はある方ではあるが。
そんな浅人を見て、岸田は笑った。嘲笑。厭な笑み。
「一体誰がお前を抱くんだろうなぁ?楽しみだ」
「抱かせねえよ」
空になった紙コップを投げる。
見事にゴミ箱に入ったのを確認してから、浅人は岸田の目を睨みつけた。
「誰にも抱かせねえし、一枚も脱がねえ」
真摯な双眸が、岸田を貫く。
その視線に、岸田の背筋がゾクゾク・・・と震えた。嘲笑がより深く刻まれる。
「その自信、いつまで保つかな?ま、期待してるよ・・・浅人ちゃん」
相手を見下す厭な笑みを浅人の脳裏に刻みつけ、岸田はグラウンドの整備に戻っていった。
その岸田の背中を見ながら、浅人は何か異様な感覚を憶えていた。
(やつの行動と視線・・・何か引っかかる)
「アサやん」
「ひっ」
思考を巡らしていた為か、突然声を掛けられて体を竦ませる浅人。急いで振り向くと、「・・・どうした?」
そこには不思議そうな顔をした沢田が立っていた。浅人と岸田のやりとりを見ていなかったのだろうか。
「あ、ああ、沢田か・・・何の用だ?」
内心の焦りを隠しきれないまま、浅人は曖昧に笑ってみせた。
だが、その笑みは沢田の心を大きく揺さぶるものであった。いや、決心させるもの、か。
「やっぱり、止めとけ」
「は?」
「こんな賭け、お前がやる必要なんてどこにもないじゃないか。男に戻るまで、部活を休んでろよ。
それが駄目ならマネージャーとか・・・兎に角、お前は今野球をやるべきじゃ・・・」
言葉を続けようとした沢田の口が、止まった。目の前の少女の、その瞳を見た瞬間。
「大丈夫だよ。確かに球速や球威は激減したけど、その代わりに球のキレとコントロールは男の時よりいい。お前も見ただろう?」
浅人は、淡い微笑みを浮かべていた。それこそ、儚く消えてしまいそうな粉雪の如き。
自信、ではない。覚悟、でもない。決意を秘めた双眸。
それを見た瞬間、沢田は何も言えなくなってしまっていた。何故かは、本人すらわからない。
「俺は負けない。あんな下劣な野郎なんかにはな」
少女の吐く言葉とは思えない乱暴なことばも、今の浅人には十分フィットしていた。
「んじゃ、そろそろ準備でもしましょうかね・・・おーい、種倉ー!」
軽く体を動かしながら、遠くの方を均している少年を呼んだ。
少年はトンボを端に置いて、駆け足で近づいてきた。
野球部の習わし通り、髪型は坊主頭ではあるが、その整った容貌は、誰が見ても美少年である。
種倉。野球部一年にして、キャッチャーのレギュラーを取った実力者である。
「はい、何でしょう先輩」
「準備するから、ストレッチとか手伝ってくれ」
「了解です」
種倉と共に、外野の端の芝生の方に向かっていく浅人。
種倉は、浅人のお気に入りであった。今時の若いのとは違い、種倉は素直で、律儀であった。
バッテリー(ピッチャーとキャッチャーの組み合わせの事)だから仲良くしなくてはいけない、ということも無いわけではなかったが、それを抜きにしても、浅人と種倉の仲は良いものであった。
そんな二人の背中を見つめながら、沢田は何を思っているのだろうか。
準備を全て終え、再び浅人と岸田は対峙した。
「ルールは簡単。スタメンの内5人に対して投げろ。打たれた時の罰は朝に言った通りだ。
守備は一年生にやらせる。何か聞くことは?」
「特に無い」
素早く切り返すと、浅人はマウンドへ向かった。その後ろ姿に、岸田の笑みが向けられる。
岸田は──欲情していた。女になった浅人に。
今だってそう。何とか抑えられてるようなものの、勃起しているのがばれるのは時間の問題だ。
そんな事など全く知らず、浅人はマウンドに立った。視線は遥か上、青き空。
準備中の種倉との会話・・・それが浅人の脳内で回り巡る。
『先輩、逃げてください』
『あ?突然どうした』
『岸田の野郎、俺達にエラーしないと酷い目に合わすって脅してるんですよ』
種倉も岸田の事は嫌いらしい。先輩であるにも関わらず、呼び捨てである。
『そんなんだろうと思ったよ』
『何呑気に言ってるんですか。先輩、もしかしたら・・』
『大丈夫だよ。お前が俺にそれを言ってくれた。それだけで、十分勝機はある』
『・・・先輩・・・』
『そんな顔するなって。俺は負けないよ。あんな奴等に負けてたまるかってんだ』
「そうだ、あんな奴等に」
再び小さく呟いて、浅人は前を向いた。
己の為に戦う戦乙女が、その地に舞い降りた。
「へへ、最初は俺が相手だ」
左のバッターボックスに入った男は、この野球部の一番を任されている男だ。
打率も高く、足も速い。塁に出れる確率は、五割以上である。
そんな選手を前にしても、浅人の真剣な表情に揺るぎは無かった。そうでなければ、エース等と名乗れない。
浅人は、男の頃から度胸の据わった人間であった。些細なことで、その難攻不落の鉄壁は打ち崩せない。
「じゃ、始めろ!」
岸田の号令で、守備に入っていた一年生がそれらしく構えを取る。しかし、どいつもこいつも芝居である事を、浅人は既に知っていた。
(打たせて取る戦法は殆ど使えない・・・となると、三振だけ・・・後はピッチャーフライと、キャッチャーフライか)
淡々と状況分析を始める浅人。そして、投球に入る。腕を高々と振りかぶる、所謂ワインドアップ。
その細い腕から渾身の力を込めて投げられた、その第一球。
カキィィィン
「!」
冷や汗がどっと出る。
「ファールボール」
白球は白線を切り、ファールゾーンへと飛んでいく。
「ふぅ・・・」
命拾いした、という溜息か。否、計算どおりうまくいったことへの安堵の溜息だ。
浅人はわざとこの打者の好きなコースに球を投げたのだ。そして、男の時より遅い球に対して打者は振りは早すぎた。大分前でのミートとなり、結果、打球はファールになるしかなかった。
悔しそうにする打者は、再び構える。さっきまでのにやけた顔は何処にいったのか、極めて真剣な表情で浅人を睨みつけてくる。あの程度の球なら次は打つ・・・そう言っているのだろうか。
構わず、浅人の第二球。
白球は、舞った。
「あうと〜」
酷くやる気の無い声で、一番打者の死が宣告された。
結果はピッチャーフライ。浅人は、ストレートの緩急だけで、見事仕留めて見せたのだ。
「あぁ〜〜〜」
落胆の声が球場に木霊する。この場にいる殆どの人間が、浅人の下着姿、或いはそれ以上を望んでいるようだ。
例外を挙げるとするならば・・・沢田、種倉、そして女子マネージャーくらいか。
「ふぅ」
一旦帽子を取り、額の汗を拭う浅人。その動作は、何故か少女の可愛らしさを引き出していた。
輝いているからこそ、人は美しいとか綺麗とか思うものなのかもしれない。
次に打席に入ったのは、長身の男。この高校の四番打者であった。
(げ・・・よりにもよって、こいつか)
この打者の恐ろしさを、浅人は誰よりも知っていた。どこまでも喰らいつく反射神経。ホームランは少ないものの、その長打と粘り強さは投手にとってかなり厄介なものである。
この状況にして、いきなりピンチ到来である。
それでも、浅人の瞳の輝きを失わせる事は出来ない。むしろ、その力強さは増していく。
腕を高く振り上げる。狙いは内角ぎりぎり、ボールの球になるコース。
白球が浅人の手から離れる。その球は、種倉のキャッチャーミットに吸い込まれるように───
カキィィィン!
ボールは、ミットに収まる事を拒絶した。
「っ!!」
浅人は咄嗟に体を沈める。同時にグローブを突き出す根性は、正に投手の性質であろう。
が、今回ばかりはそれが悪い方向に傾く。
『バシッ!』
「あうっ!」
四番が打った打球は、物凄い速さで浅人を襲った。ピッチャーライナーだ。
その打球が、差し出した浅人のグローブに直撃した。ボールは軌道を変えただけで、そのまま外野、センターとレフトの間に転々と転がっていく。その間に、打者は一塁を回り二塁へ。悠々とセーフ。
(ツーベース・・・!)
打たれた。その事実に浅人は歯を食いしばった。
「あ〜さとちゃ〜〜ん!」
ベンチから声が聞こえる。愉悦の声。
「さあ、約束通りだ、脱いでもらうぞ〜!」
岸田の酷く嬉しそうな声が、浅人の鼓膜を刺激する。感情がもろに流れ込んでくる。
(クソ・・・!)
浅人はおもむろに帽子を取り、投げ飛ばした。髪を結わえていたゴムを外し、頭を左右に振る。
ボリュームのある髪がブンブン揺れ、髪が整われていく。まず、これで一枚。
次にグローブを外して脇に挟み、上着のボタンを外していく。
「おっ」
誰かが声を上げた。誰もが、いきなり上着を脱ぐとは思ってなかったようだ。靴下とか、帽子だけでも脱げば上等、と思っていたのだろう。
その光景を見て、岸田の欲情はより一層膨れ上がった。
「そうだ・・・それでこそお前だ、浅人・・・」
最早狂気すらも含んだ彼の瞳。この時に、誰か一人でも彼を止められていれば、未来は変わったかもしれない。
だが、この時点で止められるのは浅人一人であった。
上着を脱ぎ捨てる。その下に着ているアンダーシャツは、体の部分は白、肩から手首まで黒い生地で覆われている。その姿の方が、浅人を美しくさせている。
「さあ、次はどいつだ!」
雄々しく胸を張り、叫ぶ浅人。自分は男だ。この柱が折れぬ限り、自分は負けない。
気丈なまでの浅人の態度は、岸田だけでもなく、部員達の心にも火をつけた。
「よし、じゃあ次は俺だ」
バットを持って打席に向かう男。この打者もまた、打率には自信のある打者であった。
ここで、岸田がベンチから出た。
「そうだ、一つルールに追加しよう」
その言葉に、浅人の眉間に皺が寄る。
「追加?」
「ああ。ランナーがホームベースに戻る数・・・つまり、お前が得点された数だけ、俺らの前でオナニーをしろ。どうだ、面白いだろう?」
両手を広げ、まるで地獄の死者のようないでたちの岸田。この状況を、心から愉しんでいる。
そんな男を前に、浅人はあくまで気丈に振舞う。
「いいぜ、それで行こう」
こんな事とっとと終わらせる。打たれなければいいのだ。浅人はこの時そう考えていた。
岸田がベンチに戻る。それとほぼ同時に、浅人が構えた。ランナーがいる時の、セットポジション。
左手・・・グローブを填めてある手の痛みを、意識的に忘れて。
左のバッターボックスに入った男の特性を思い出し、そこに投げようと意識を集中、そして・・・
「走ったぁ!」
投げた、と同時に聞こえた種倉の声に、浅人はハッとした。まさか、この状況で盗塁?
打者は打たない。ボールをキャッチした種倉は、三塁に──投げなかった。投げれなかった。
その姿を見て、浅人は再びハッとした。自分と種倉以外は、エラーすることが前提である。
つまり、ランナーをアウトにする事は、事実不可能。
悠々と三塁に走りこむランナーを見て、浅人は歯を食いしばった。
(姑息な・・・!)
だが、それに乗ったのは自分だ。今更ながら、己の愚かさに気付かされた。
だが、状況はより悪い方向に転がっていく。浅人の自信を揺さぶる形で。
ボールを手元に戻し、第二球。そこで、打者は思わぬ行動を取った。
いや、今の状況で一番適切、という方が正しいか。
コン・・・
「!?」
バットを横に構えて、来たボールにただ当てるだけ。当たったボールは勢いが死に、三塁の方に転がっていく。
バントだった。
「チッ!」
舌打ちを残し、浅人はボールの元に走った。急いでボールを拾う。そして、そこで丁度ランナーとすれ違う。
(もらった!)
素早く持った手をランナーにつける。躱す動作は見せたものの、浅人の手にはしっかりと触れた感触。
しかし、それでもランナーは全力で走った。ホームベースでスライディング。まるで、タッチされたことなど感じてないように。
そして、それが現実となる。
「セーフ!」
ランナーを迎えたのは、罵倒ではなく賞賛だった。
「な・・・待て、今俺は確かに・・・」
怒りのボルテージが上がり、審判に文句をつけようとした時。
「先輩!」
二塁の方から声。咄嗟に振り向き、ボールを投げた。呼ばれたことで、今の状況を速攻で理解した。
バッターが一塁を回り、二塁に走ったのだ。
投げられたボールは上手く二塁手の元に行く。それをキャッチした一年は、滑り込んでくるランナーに果敢にタッチしていく。だが。
「セーフ!」
審判の下した宣告は、非情なものであった。
「・・・得点を与えた・・・だって?」
オ オ オ ォ ォ ォ !!
球場が沸いた。自分らの願望が成就したのだ。部員一人一人、守備に入っている一年の殆どですら、それを隠さずに咆えたのである。
「ま、待てよ!今のはどちもアウトだろうが!どう見ても!」
浅人は怒りに任せて二塁の審判に食い下がった。審判といえども部員である。文句を言ってはいけない理由はない。
「審判は中立なんだよ」
しれっとした態度で受ける二塁の審判。岸田の根はここまで広がっているのか。
やられた。完璧に策にはまった。審判もグルだったなんて。
抗議しても無駄と言うことなのか。不平は不平ではないのか。
あんな奴等の前で、女として自慰を披露しなければならない。今更、後悔しても遅かった。
その上、打者は二塁打。さらに二枚、鎧を剥がなければいけない。それは、浅人の怒りをより高めた。
そして同時に・・・絶望も。
誰かが言う前に、浅人はグローブを外しアンダーシャツを脱いでいた。誰かに言われてやるより自分の意志でやる方がまだ救いになる。そう自分に訴えた。
(・・何の救いだ?)
震える手が、自分のシャツを脱がす。素肌をさらす・・・白い肌には、豊かな胸を押し潰すようにサラシが巻いてある。それにも手を掛ける。
今までの気配と一変、球場は静けさに包まれた。
白いブラジャーが露になる。それと同時に、押さえつけられていた胸が自己主張する。
その全体の美しさに、全員が息を呑んだ。仲間である、種倉でさえも。
「次は、誰だ?」
消え入りそうな声だった。ともすれば、震えていたかもしれない。俯いたまま、前髪でその表情は伺えない。
それで、時は動き始めた。「じゃあ、俺が」と、一人の立った、その時。
「ぐあっ!」
呻き声で、浅人は顔を上げた。そこにいたのは、出ようとしていた打者を引き摺り落とした───
「沢田・・・?」
浅人は信じられなかった。我が目を疑った。
沢田は、あの男だけはこんなゲームに乗らないだろう、そう思っていたのに。
一年の頃から共に努力し、励まし合ってきたあの沢田が、自分をどん底に落とすようなことはしないだろう・・・そう信じていた浅人の精神は、混乱を超えて錯乱状態に陥った。
打席に入る沢田。その顔に、表情は浮んでいない。
「沢田先輩・・・」
種倉の懇願するような声、どうして貴方が・・・そんな訴えが含まれているのは明らかだ。
沢田は、何も語らない。ただ上半身が下着姿になった浅人を見つめるだけ。
「・・・信じていたのに」
浅人は小さく呟いた。立ち直れるか、自分では判断できない。
左手の痛みが、ここぞという時に増してきた。いや、思い出した、というべきか。
やるしか・・・ないのか。
浅人は構えた。前髪で視線を隠し、虚ろな心を隠して。
「うあああぁぁぁぁぁ!」
渾身の力を込めて球を放る浅人。そして───
カキィィィィン・・・
やけに甲高い金属音が球場に響き、白球は綺麗な放物線を描いた・・・。